03, Mar 2010

明倫茶会/2月席主:高橋匡太

日 時: 2010年2月27日(土)
会 場: 京都芸術センター 和室「明倫」
席 主: 高橋匡太

明倫茶会は、京都芸術センターが開館以来、毎月開催している茶会。席主によって趣向が異なる。この2月の席主は、高橋匡太氏。

茶室中央の畳の上に、一見素材のわからない黒い大きな板が敷かれており、室内が映っている。板は、油の海のようであり、黒漆がほどこされているようでもある。が、この畳2.5枚分ぐらいの板は、実は、数ミリほどの厚みの黒い鏡である。黒い鏡は、さざ波さえ立たない林の中の沼のように、天井や覗き込む人々の姿を静かに映し出している。客は、沼の縁を歩くように、それぞれの席に着く。照明を落とした室内には、障子越しの淡い光が届いていた。

会記に替えた高橋氏のメモ:
「茜色「紅掛空色」「月白」「漆黒」「東雲色」「曙色」

これらは夕刻から日没、夜から夜明けにかけての色を表した日本伝統色の名称です。我々が普段使う「アカ」という色名は、夜が明けて朝になるという事に由来し、また、「クロは「日が暮れる」とゆうことに由来しているそうです。

つまり古来の日本においての「黒」の反対色は「赤」だったのです...
また古来、「夕焼け」と「朝焼け」を異なった色と認識し表現していたことに感心します。
夕暮れの空の様々な色の変化を眺めていると、僕はとても贅沢な気持ちになります。「ああ、これで充分なんじゃないか。」といつもしばし心を奪われてしまいます。でも僕は光や映像を空間において扱うアーティストです。素材となる光は全て人口のアカリです。人口の映像や光を扱う事の最大の特徴、それは「時間操作」だと考えています。時間を延ばしたり、ちじめたり、あるいは止めたり...
美しさでは到底、自然現象に及びませんが。
今回の茶会では、様々に移ろう光を楽しんでいただこうと趣向を凝らしました。

[今回の茶会の為の制作メモより]
「反転」「発光/反射」「光/影」「見える事/見えない事」「もう一つの世界」

高橋匡太(現代美術作家)

茶の世界をまだほとんど知らない私にとって、最近すこし見えてきたのは、茶室の中の出来事は、深い山の柴の上に座る心持ちということだ。居合わせる人々の間に、それぞれの鋭くなった感覚が行き来し、共有できるのは、そこにある時間だけと感じるのである。

高橋匡太氏の茶会では、薄暗さの中、互いの姿も素性もかき消されてしまい、本来目で楽しむ菓子の色や形もよくわからない。床の間の軸に替えた細長い和紙には、実体のわからない抽象的な影が映っている。菓子は、ただただ味覚となって存在を際立たせ、軸のイメージは、影絵の正体についてさまざまな想像をかき立てさせる。隣り合う人の気配も次第に薄れていく中、障子越しの光はゆるやかに色を変え、ハイスピードで一日が過ぎて行くように感じられる。

茶会は午後からの4席。私が参加したのは最終の席で、外はもう日没していた。が、今回の茶会では、茶室の周囲を完全に遮光し、全席が同じ環境で行われたという。外界の自然の移ろいを遮断し、室内では自然の光を模した人口のアカリが自然を演出する。そのような入れ子状のしつらいにおいて、自然の中にいるよりもいっそう、人として本来の感覚を呼び戻したかのような不思議な体験だった。

茶会の前の日中、空は、前日とうってかわって晴れ渡っていた。ほぼ満開の梅苑を訪れ、梅の香に包まれたばかりだった。何もかもが香りづけされた現代、あらゆる香りが別々の意図や意味を放ち、かえって香りの存在を無意味にしていると感じるときがある。梅苑の香りは、そこを立ち去ればすぐに消えてなくなる香りである。光や音、味もまた同じである。
が、立ち去ってもなお、そこへ引き戻される感覚。それは、そこで過ごした時間の記憶が、たとえば嗅覚の奥に、目を閉じた脳裏に、舌の奥に封印されているからだろうと思う。

高橋匡太氏の光の茶室は、そこへ引き戻される感覚の、時間そのものを象徴していたと、翌朝、目覚めたときに思ったのだった。

協力:
川口怜子

竹内宗範
中村正史
杉山早陽子
吉岡聳山
吉岡宗瞳
吉岡宗節

機材協力: カラーキネティックスジャパン株式会社

(松尾 惠 VOICE GALLERY pfs/w)

有機ELを使った発光する菓子器

撮影者:川口怜子


明倫茶会/2月席主:高橋匡太

Category: Events





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