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ドライブイン展覧会「類比の鏡/THE ANALOGICAL MIRRORS」レヴュー文:飯田志保子(キュレーター)

2020 12 02

語りやサウンドを伴う映像は、作品ごとにチャンネル数が設定されたカーラジオでFM電波を受信するため音声や音響が直接車内に流れ、まるで筆者だけに向けられた私的な語りのように聞こえる。スロバキアのアーティスト、アンドラーシュ・チェーファルヴァイが霊長類の祖先といわれるプルガトリウスやニュートンに仮託して淡々と語る人類の進歩主義や主知主義批判はいずれも2018年の作だが、パンデミック収束の見通しが立たないこの状況下で見ると、ことさら頷かざるをえない警句として響く。同時に軽妙さと若干のシニカルさも持ち合わせているところが魅力的である。特に2点組の映像《Purgatorius》うち2作目では、ラフな室内に設けられた簡易的なグリーンバックのなかでチェーファルヴァイ自身がプルガトリウスを演じており、1作目で見たアニメーションのリスザルのような愛らしい小動物の姿で人類に内省を促していたプルガトリウスの中身が顕にされる。神妙な語りとそれを演じるアーティストの実態とのギャップが笑いを誘いながらも、表層的な警句を発するだけで歴史を繰り返す人類を自己批判している。他方、木村舜の《存在》は、木の枝から吊り下げられたチープなお化け屋敷にあるような衣服のオブジェよりもカーラジオの聴覚体験が印象に残る。さまざまな場所で木村が霊的な気配や存在を感じた時のエピソードを聞くともなく聞くのは、何気なくつけていたラジオから流れてくる番組を聞くような日常の経験さながらである。木村の語りはその後、音を用いない作品が数点続く間もぼそぼそとカーラジオから流れ続け、先述したソリッドな展覧会形式の風通しを良くし、展覧会と日常、共同スタジオと外界を接続する回路にもなっていた。

アンドラーシュ・チェーファルヴァイ《Purgatorius》  2018
アンドラーシュ・チェーファルヴァイ《Purgatorius》  2018
アンドラーシュ・チェーファルヴァイ《Purgatorius》 2018

このような展覧会形式と視聴覚経験によって醸成されるある種の親密圏における作品の体験は、パーソナルな空間でパーソナルに作品を享受すること、つまり個から個へ直接表現をコミュニケートしようとする展覧会の基本に立ち返ることである。さらに言えば、文脈を欠き(あるいは奪われ)、インターネット上で表象として流布された作品の断片を流し見る/ブラウズすることに対する批評的な鑑賞態度と身体性を取り戻すことでもある。企画運営に携わるキュレーターと参加アーティスト、そして鑑賞者の双方が若干の不自由さを受け入れることで、本展では不自由さの再配分と共有に支えられた展示空間が成立し、不可避のネガティヴな条件がポジティヴに転換されていた。

本展の開催には、今年8月に実施されたプレ・トライアル展(「新たな鑑賞条件を想定した展覧会フォーマットの研究・開発・試行(ドライブイン形式・試行編)」)が重要であったことが同封の記録冊子で確認できる。外部アドバイザーから、サファリパークやドライブイン・シアターとの比較において、形式の優位が指摘されたフィードバックが複数あったことをふまえ、劇場性とパフォーマンス性を抑制する改善が施されたことが窺える。それは演出の引き算によって作品を前景化させることを意味する。作品と現実の諸条件に即して鑑賞に不要なノイズを最小限に抑えた結果、本展では作品に集中することが可能な環境が整えられていた。それを成し得た主催者の軌道修正力と発展力、そしてアドバイスに耳を傾けた謙虚さを評価したい。他者との距離は、外的要因によって作られコミュニケーションを遮断することもあれば、双方が自発的に一歩下がるような謙虚な態度によって発生し、そのことでかえってコミュニケーションを相互に希求する促進力になることもある。言うまでもなく、本展を支えた謙虚さは後者に資する。

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