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	<br />
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				<data>&lt;figure class=&quot;mv&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.ameet.jp/wordpress/wp-content/uploads/202608_01_00.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/figure&gt;
&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;フォンタネージ―イタリアの光・心の風景&lt;/h1&gt;&lt;dl class=&quot;eventDateBox&quot;&gt;&lt;dt&gt;日時&lt;/dt&gt;&lt;dd&gt;&lt;p class=&quot;eventDate&quot;&gt;2026年7月18日（土）&lt;span class=&quot;dib&quot;&gt;～10月4日（日）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class=&quot;eventStatus open&quot;&gt;開催中&lt;/p&gt;&lt;/dd&gt;&lt;/dl&gt;&lt;dl class=&quot;placeBox&quot;&gt;&lt;dt&gt;会場&lt;/dt&gt;&lt;dd&gt;&lt;p class=&quot;place&quot;&gt;京都国立近代美術館&lt;/p&gt;&lt;/dd&gt;&lt;/dl&gt;&lt;div class=&quot;cat&quot;&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/pick-up-events/category/京都市/&quot;&gt;京都市&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/pick-up-events/category/展覧会/&quot;&gt;展覧会&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 07 18&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div id=&quot;page_tabs&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;entry_bodies&quot;&gt;

&lt;p&gt;あなたはアントニオ・フォンタネージという画家を知っていますか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;全く知らない、という人もいるでしょう。美術に関心のある方ならば「明治時代に西洋絵画を教えたお雇い外国人」と答えるかもしれません。また洋画に詳しい方ならば浅井忠や小山正太郎の先生としての姿や、高橋由一との交友を思い浮かべるかもしれません。こうした反応が示すのは、第一にフォンタネージの名前が十分に知られていない、ということ。そして知っている人にとっても、お雇い外国人としてのイメージが強い、ということです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;英雄ガリバルディの下でイタリア独立戦争に身を投じた兵士。ジュネーヴの都市風景を巧みに表した石版画家。パリのサロンに作品を発表し、当地でミレーやコローを研究するモダンな画家。ロンドンに滞在して版画を制作しつつ、ターナーやコンスタブルを吸収する旅人。フィレンツェの若手画家たちに信頼されるベテラン。南仏の田舎道を友人と歩く風景画家。トリノでも東京でも教え子から慕われる教育者。これらはすべて、「アントニオ・フォンタネージ」というひとりの人間の側面です。何度も同じ主題を取り上げつつ、理想の風景を絵画にしようとする姿勢、都市の忙しさや農村の労働に対する真摯な眼差し、そして何よりも、光と自然に対する貪欲な関心̶̶作品に目を凝らせば、「モティーフを高らかに歌わせよ！（La faccia cantar alto il suo motivo!）」と弟子たちに説いたフォンタネージの姿が見えてきます。フォンタネージを全く知らない人にとってはもちろん、名前を聞いたことがある人にとっても新しい。そんな風景画の旅が、いま、幕を開けます。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section60&quot;&gt;&lt;small&gt;メインビジュアル：アントニオ・フォンタネージ 《日本の寺の入り口》 1878－80年 レッジョ・エミリア市立博物館 Musei Civici Reggio Emilia&lt;/small&gt;&lt;/p&gt;


&lt;!-- 開催概要 --&gt;
&lt;table class=&quot;events_info tbl_fixed&quot; summary=&quot;イベント情報&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; border=&quot;0&quot;&gt;
&lt;tbody&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th width=&quot;180px&quot; scope=&quot;row&quot;&gt;展覧会名&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
フォンタネージ―イタリアの光・心の風景
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;開催日時&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
2026年7月18日 - 2026年10月4日
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;会場&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
京都国立近代美術館
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;詳細&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
&lt;a href=&quot;https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionarchive/2026/467.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;
https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionarchive/2026/467.html
&lt;/a&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;/tbody&gt;
&lt;/table&gt;
&lt;!-- 開催概要 END --&gt;

&lt;!-- ソーシャルリンク --&gt;
&lt;div class=&quot;socialWrapper&quot;&gt;
&lt;nav class=&quot;catList&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/pick-up-events/category/京都市/&quot;&gt;京都市&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/pick-up-events/category/展覧会/&quot;&gt;展覧会&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;span class=&quot;line&quot;&gt;&lt;/span&gt;
&lt;/nav&gt;
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&lt;/nav&gt;
&lt;/div&gt;
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}
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&lt;!-- ソーシャルリンク END --&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</data>
			</item>
				<item class="row1">
				<data>&lt;figure class=&quot;mv&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.ameet.jp/wordpress/wp-content/uploads/202606_03_00.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/figure&gt;
&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;特集「関西の美術批評」&lt;/span&gt;メディア（新聞など）と美術批評の思い出&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;文：太田垣 實（美術評論家）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div class=&quot;cat&quot;&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/feature/category/美術/&quot;&gt;美術&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 08 01&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;!-- 導入 --&gt;
&lt;div class=&quot;leadWrapper&quot;&gt;
&lt;p class=&quot;lead&quot;&gt;美術と美術批評は互いに作用し合い、不可分の関係にある。その関係には、地域ごとの特色があり、特に関西は独自の道を歩んできた。関西の美術批評は誰が担い、メディアの変化からどのような影響を受けてきたのか。その歩みを、担い手の視点と、批評史の視点から振り返る。&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;author&quot;&gt;
KYOTO ART MAPリレートークにて。左・太田垣實&lt;br/&gt;
時：1998年5月23日　KYOTO ART MAPリレートーク「時代に向けてのネットワーク〜ひと・まち・アート〜」（ゲストの方々・主催者・関係者による）&lt;br/&gt;
場所：関西ドイツ文化センター（現ゲーテ・インスティトゥート）&lt;br/&gt;
写真提供：KYOTO ART MAP
&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;#_profile&quot; onclick=&quot;gtag(&#039;config&#039;, &#039;UA-10908285-2&#039;, {&#039;page_path&#039;: &#039;feature/6259/1/&#039;});&quot;&gt;&lt;span&gt;プロフィールを読む&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;!-- 導入 END --&gt;


&lt;h2&gt;はじめに&lt;/h2&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　ウェブ・マガジンAMeeTの７月特集「美術批評と関西」の関連で「メディア（新聞など）と美術批評の思い出」というお題で原稿を依頼された。私が、京都新聞で美術記者となり、京都を中心に関西のアートシーンを取材・報道し、美術批評を専門にするようになったのは１９８０年代の初期。以後、４０有余年、京都新聞を定年退職し、大阪成蹊大学芸術学部や京都精華大学、嵯峨芸術大学などで教授・非常勤講師として勤める一方、美術評論家連盟会員として、関西の美術批評にかかわってきた。この４０数年のあいだに大きく変わったのは、美術批評の舞台となるメディア（情報媒体）の大変化である。新聞、雑誌、書籍など活字文化を主にしたメディア産業は、パソコン、スマートフォンなどインターネット・デジタルメディアの飛躍的な進展の前に、オールドメディアとして往時の勢いを失ってきたことは周知のこと。私が美術批評に携わるようになってからの４０年余りの時代の移り変わりに伴う思い出は、アナログからデジタルへのメディアの一大変化と無関係ではいられない。&lt;/p&gt;


&lt;h2&gt;京都新聞の美術部員としてスタート、唯一の新聞社美術部&lt;/h2&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　私の美術記者のスタートは京都新聞社編集局美術部員となったこと。日本新聞協会加盟社は数多くあるが、編集局内に独立した部署として美術部を置いたのは京都新聞だけだった。念願叶って部員となったときの美術部は、部長以下、私を含む記者２人の３人体制だった。その後、学芸部と一緒になって文化部となり、戦後まもなくから存続してきた美術部は消滅した。他社の美術記者から「京都新聞ならではの特色だったのになぁ」と惜しまれたものだった。なぜ京都新聞が美術部を設けていたかといえば、京都新聞の前身である京都日出新聞時代から美術関係の記事、報道、批評に力を入れてきた伝統があってのことだ。日出新聞時代の一端の例をあげると、明治１９年６月、日本美術の恩人ともいわれるアーネスト・フェノロサが入洛し祇園中村楼で行った講演を７回に渡る連載で伝えた金子静枝記者がいる。彼は翌明治２０年にフェノロサや岡倉天心、宮内省の九鬼隆一、文部省の浜尾新らが行った大規模な関西古社寺文化財調査に随行、日出新聞紙上で長期の連載を行って文化財保護の重要性を説く、今でいうキャンペーンを行って、今日の国宝や重要文化財指定制度を含む文化財保護行政につながっていった。金子より少し後の黒田天外は当時の京都の名だたる日本画家や工芸家を訪ね、時間をかけた訪問インタビュー記事を書き、明治３２年に『名家歴訪録』上編を刊行。のちの美術雑誌などでも盛んにおこなわれた作家訪問の特集記事の先べんをつけた。金子や黒田のような花形的な報道のほか日出新聞は、さまざまな展覧会の出品作品、作家の近況や動静、美術の会合や催しなどの参加者など、京都の地元紙ならではのこと細かな事柄も報道した。これらは美術界の出来事や展覧会などの記録媒体が新聞くらいしかなかった明治時代には、のちの近代美術の研究者にとっては貴重な一級の客観的資料ともなった。日出新聞からのこうした伝統は、太平洋戦争の戦時下における新聞統合で日出新聞が京都日日新聞と統合されて京都新聞となって以降も続き、戦後の復興期を経て京都新聞編集局に美術部がつくられることにもつながったと思われる。&lt;/p&gt;


&lt;h2&gt;美術記者になったころ　関西のアートの活況、バブル経済の好況、新聞紙面増加&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　私の京都新聞美術部記者としての肩書は２年間だけで終わったのだが、美術記者としての活動は編集委員、論説委員など肩書は変わりながら、定年退職まで続いた。関西の美術を取材するようになった１９８０年代当初は、関西のアートシーンが活況を示し、東京方面はじめ全国からも注目を集めた時期だった。東京芸大と京都芸大の学生たちの「フジヤマゲイシャ」展、京都芸大と大阪芸大の学生らによる「イエスアート」展などのグループ展や京阪神の画廊での個展で注目された、若く新しい才能が次々に輩出。当時の兵庫県立近代美術館が企画開催していた「アート・ナウ」に推薦されると、前例のない美術表現や、色彩も作品形体も設置の仕方も破天荒なまでにエネルギーを放散する大型作品を発表した。現在も国内外で日本の現代美術の有力作家として活躍を続ける森村泰昌、中原浩大、石原友明、松井紫朗、松井智恵ら「関西ニューウェーブ」と呼ばれた作家たちが脚光を浴びた。東京よりも関西の方が勢いもあって活発だということから「西高東低」と冬型気圧配置のような形容までメディアが使ったりしたものだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　当時の日本の経済は高景気が続き、個人所得も企業収益も右肩上がりで拡大し、大きいことは良いことだと金融も経済も拡大一途、金余りの投機熱がバブル経済に向かって加速していった時代。自治体も税収の増加で財政に余裕があり、地方の公立美術館の建設ラッシュが続き、新設美術館も潤沢な購入予算で収蔵品も買いそろえ、派手なオープニング記念展など華やかさを競った。好景気を背景に企業も広告費を惜しまず、活字メディアの主要な新聞産業も広告を掲載する紙面の増ページに追われた。増やした紙面を埋めるのに美術界の活況はうってつけという判断もはたらいていたと思う。関西のアートシーンの活気も手伝ってのことか、読売新聞大阪本社も美術面の一ページ特集を週一回つくったし、産経新聞も美術の特集面を新設した。早くから週一回の美術面特集を制作していた京都新聞は、この時期見開きの２ページ特集にしようかという話も持ち上がっていた事実も記憶している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　美術館の企画展も多彩に開催され、自治体や企業支援の絵画や彫刻、工芸コンクールなども相次ぎ、画廊の新設も相次いで個展も花盛り。美術界のパイが大きくなれば、それにのって美術雑誌や情報誌なども多彩に刊行された。『美術手帖』が東京と関西の個展批評を二人の執筆者に拡大したのも１９８０年代で、情報誌の『ぴあ』が部数を大幅に伸ばしたのもこの時代だった。私は『美術手帖』の関西エリアを１９８６年から１年間担当した。美術雑誌からの原稿依頼もあり、京都新聞の本務以外の執筆もあって多忙だったことも懐かしい思い出だ。２０２６年のことし、ＮＨＫテレビの日曜美術館が１９７６年の放送開始から５０年を記念した特集番組を組んでいたが、テレビ界も美術を扱う番組が増え、作家のアトリエ訪問や独創的な美術表現を放映する番組が多くなったのもこの時代。取材を受けて取り上げられた美術家から放映日を知らせるハガキをもらうことが増えたのもこのころだった。金余りの投機過熱は絵画や美術品の取引にも波及し、ゴッホの「医師ガシェの肖像」を１２５億円で落札購入、「自分が死んだら墓場にもってゆく」と言ってのけ、ひんしゅくをかった大手製紙会社の某会長もいたし、大阪方面では闇の世界も絵画取引の背後にうごめいて社会的事件になるなどの負のページも織り込んだ絵画ブームだったが、京都の画廊街ではバブル景気の大波にともなう絵画ブームで大儲けしたとか絵画や美術品の不良在庫をかかえて破産して夜逃げするような画廊の話をあまり聞くことがなかったのは幸いだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　バブル経済の崩壊の崩壊から始まる１９９０年代は、のちに「失われた３０年」などと呼ばれる日本経済の長期低落の始まりでもあるのだが、活字メディアの主要産業である新聞業界はまだ元気だった。日本新聞協会の調査で加盟社全体の総発行部数がピークだったのは１９９７年で、約５３００万部だった。美術出版社の月刊誌『美術手帖』も健在で１９９８年の４月号で「春の関西アートガイド」の特集を組み、「関西のアートシーン―１９８０年代以降―」という座談会（太田垣 實、篠原資明、中井康之、藤本由紀夫、松尾恵の５人）を掲載したこともあった。京都の画廊街もバブル景気に踊ることも浮かれることもなかった分だけ余力があり、現代美術系の画廊が結集して各ギャラリーが一押し作家の個展を開催、一枚の地図をつくって、それを見ながら画廊ツアーをする「ＫＹＯＴＯ　ＡＲＴ　ＭＡＰ」を１９９８年から３年間毎年開催、その後隔年で２回の、つごう５回開催、東京方面からも注目を集め、話題になったこともあった。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600 section100&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202606_03_01.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;『美術手帖』1998年4月号（美術出版社）に掲載された、座談会「関西のアートシーン―１９８０年代以降―」の扉ページ&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;


&lt;h2&gt;阪神淡路大震災とインターネット元年&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　新聞など活字メディアからインターネット・デジタルメディアへの分岐点や、ひとつの転換期となったのは１９９５年におきた阪神淡路大震災である。６４００人余の死者数を数え、多くのビル建築や建物が倒壊して甚大な被害をみた大震災は、阪神間の美術館や博物館にも多大の被害をもたらした。建物が使えなくなった兵庫県立近代美術館（当時）や神戸市立博物館、一時は被災住民の避難場所に使われた西宮市大谷記念美術館…建物だけでなく展示作品や収蔵品が破損し、地下収蔵庫への浸水でダメージを受けた所蔵品もあった。大きな被害に対して全国美術館会議の加盟館の学芸員たちが支援に何ができるかを話しあう中で美術品や文化財のレスキュー隊が組織され、阪神間の美術館などに調査に入って、被災美術品の救援や保護、修復への支援を行った活動は特記すべきであり、２０１１年の東日本大震災がおきた際にも生かされた貴重な実践だった。１９９５年がインターネット元年と言われたのは、大震災直後、通信、交通手段が途絶し、使えなくなる状況のなかで被災者の生存や安否情報が得られにくい状況下、インターネットを介しての情報が有効な手立てとなったことからである。とはいえ当時のインターネットの普及率は０・４㌫で、ごくわずかだったのだが、この年のＷｉｎｄｏｗｓ９５発売を契機に急速に普及し２０００年代初頭に世帯普及率は６０㌫を超え、常時接続ブロードバンドの普及やスマートフォンの登場で個人利用率も一気に拡大していった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　こうした流れが顕著になっていた２００７年に私は京都新聞を定年退職したのだが、京都新聞についていえば、発行部数の減少はまだゆるやかで朝刊だけで最大５０万部を超えていた部数が数万部減った程度だったと記憶する。けれども広告収入は落ち込みがすでに始まっており、経営の合理化に伴う社員数の削減もあって、美術担当記者は二人が担保されていた取材体制は私の退職の数年前から、もう一人が兼務で美術を担当するようになり、美術面は毎週すべて自分たちでつくっていた特集面は、画廊まわりの展覧会評などには、外部の美術ライターに依頼せざるを得なくなった。新聞や雑誌、書物など紙媒体の活字メディアが衰退していく一方、インターネット社会のなかで生まれ育ったゼロ世代や若者たちは２０１０年代のスマートフォンの急激な普及とともにＳＮＳの情報発信やユーチューブなどの動画の配信にはしり、新聞やテレビ離れの傾向をたどる。若いアーティストたちもインスタグラムなどの情報発信や情報交換で個展などの場所も自分流に組み立て、旧来の画廊などを視野に入れないケースも広がった。京都の画廊でも長く続いていたギャラリーが閉めたり、活動を休止するところも多くなった。美術出版社の『美術手帖ＢＴ』がウェブ化したのは２０１７年だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　日本の新聞の総発行部数は２０２５年のデータで約２４８７万部。１９９７年のピーク時から半分以下に減ったことになる。私は京都新聞の美術担当として四半世紀以上、取材・論評活動を続けることができたが、私のあとは５年以上、美術を担当した記者はいない。これは他社とも同様で、私が美術記者になった当時は、１０年、２０年以上を担当した美術記者は、いくらでもいたものだ。時代をさかのぼれば、太平洋戦争の戦中から戦後の時期に新聞社の美術記者を務め、芥川賞や直木賞を受賞して大作家や国民的小説家になった人物もいる。大阪毎日新聞の学芸部で美術を担当した井上靖。産経新聞の大阪本社学芸部で美術や宗教を担当した在職中に直木賞を受賞して多くのファンをひきつけた司馬遼太郎の二人である。稀有な文学的才能をもった井上靖、司馬遼太郎両氏は美術記者経験者のなかでの別格的存在としても、これからの新聞メディアを考えると、フリーの美術ライターにでもならない限り長期にわたって取材、批評活動を続けることは困難な情況になったと思わざるを得ない。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600 section100&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202606_03_02.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;太田垣實『京都美術の新・古・今』（2006年、淡交社）&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;


&lt;h2&gt;終わりに&lt;/h2&gt;

&lt;p class=&quot;section165&quot;&gt;　最後に美術批評についてふれておきたい。メディア環境が大きく変わり、生成AIの急速な利用拡大が進む現在、美術批評がどのように展開していくのかは、正直なところ私にはわからない。美術記者時代に私が批評のスタンスとして目標にしたのは、展覧会であれ個展であれ、作品と直に向き合い、まっさらな裸の眼で、表現されたものに込められた作者の魂や精神、時代と切り結んだところから生まれる作品の大きないのちを感じ取り、それを論評することを一貫して心がけてきた。「言うは易く行うは難し」で、これまでにないような未見の美術表現に出合ったときなど、言語化することに苦吟したことも多い。けれど、そういう作品に最初に出合ったときの驚きや心ときめく感動は美術記者ならでは冥利だったと今更に思う。つくり手が自分の手指を使い、身体を動かし魂を込めて創り上げた未知の表現に対しての批評は、まごころで真剣に応える。美術作品や芸術作品であれ表現された作品を通しての作者と鑑賞者との目に見えない直観的な心の交わり、感情の動き。そこにこそAIにはできない美術批評の可能性がこれから先にもあるのではないかと、願望的な期待を込めて本稿の締めとしたい。&lt;/p&gt;



&lt;!-- プロフィール --&gt;
&lt;section class=&quot;profile mt60&quot; id=&quot;_profile&quot;&gt;
&lt;header&gt;
&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;PROFILE&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;プロフィール&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;		
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;javascript:window.location.href = location.pathname;&quot;&gt;&lt;span&gt;記事の冒頭に戻る&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/header&gt;
&lt;section&gt;
&lt;h4 class=&quot;secTitSty02&quot;&gt;太田垣 實　|　OTAGAKI Makoto&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;
１９４７年、兵庫県生まれ。１９７０年、京都新聞社入社。学芸部、社会部（宗教担当）を経て美術部記者。美術担当編集委員、論説委員兼務を経て、大阪成蹊大学芸術学部教授に就任（２０１３年まで）。２０２４年に京都市芸術振興賞受賞。現在、美術評論家連盟会員。公益財団法人中信美術奨励基金理事、京都美術文化賞選考委員、京都芸術センターアドバイザリーボード、京都府文化賞専門家会議委員。著書・共著に『京都の映画８０年の歩み』『美術家の墓標』『京洛の四季―近代名画１００選』『富岡鉄斎』（京都新聞社）など多数。
&lt;/p&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;!-- プロフィール END --&gt;


&lt;!-- ソーシャルリンク --&gt;
&lt;div class=&quot;socialWrapper&quot;&gt;
&lt;nav class=&quot;catList&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/feature/category/美術/&quot;&gt;美術&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;span class=&quot;line&quot;&gt;&lt;/span&gt;
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			</item>
				<item class="row1">
				<data>&lt;figure class=&quot;mv&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.ameet.jp/wordpress/wp-content/uploads/202606_04_00.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/figure&gt;
&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;特集「関西の美術批評」&lt;/span&gt;関西の戦後美術批評史を概観する&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;文：平井章一（関西大学教授）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div class=&quot;cat&quot;&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/feature/category/美術/&quot;&gt;美術&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 08 01&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;!-- 導入 --&gt;
&lt;div class=&quot;leadWrapper&quot;&gt;
&lt;p class=&quot;lead&quot;&gt;美術と美術批評は互いに作用し合い、不可分の関係にある。その関係には、地域ごとの特色があり、特に関西は独自の道を歩んできた。関西の美術批評は誰が担い、メディアの変化からどのような影響を受けてきたのか。その歩みを、担い手の視点と、批評史の視点から振り返る。&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;author&quot;&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;#_profile&quot; onclick=&quot;gtag(&#039;config&#039;, &#039;UA-10908285-2&#039;, {&#039;page_path&#039;: &#039;feature/6264/1/&#039;});&quot;&gt;&lt;span&gt;プロフィールを読む&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;!-- 導入 END --&gt;


&lt;h2&gt;美術記者による批評の時代&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　戦前、関西の美術の批評の書き手は、大半が批評される側と同じ立場、すなわち画家や彫刻家であった。例外として、1920年代末から30年代にかけて、大阪の信濃橋洋画研究所で美術史、関西大学で商学史や経済史を教えるかたわら『みづゑ』や『アトリエ』に関西の展評を寄稿した田邉信太郎（1894～1960）がいるが、残念ながら田邉は戦後、一族の企業経営を支えるため批評活動をやめてしまう。東京では瀧口修造や今泉篤男が戦前と戦後の美術批評を架橋したが、関西の美術批評は戦前とは断絶したところから再出発したといえよう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　戦後まもなくから1960年代まで、関西の美術批評は、もっぱら新聞社の美術記者の独壇場であった。もちろん東京にも美術記者は存在したが、関西の美術記者は自社の紙面だけでなく他の美術メディアにも旺盛に寄稿し、所属団体や分野の異なる美術家の媒介者となり、展覧会のキュレーションも行った。さらに1970年代になると、彼らは関西の私立大学の教員や公立美術館の館長に転身して、教育や文化行政にも関わる。これは関西の戦後美術批評の大きな特徴のひとつといえよう。以下に社ごとに代表的な人物を挙げる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まず、朝日新聞社には京都に橋本喜三、大阪に村松寛（1912～88）がおり、ともに1948年から『日本美術工芸』の展評欄「美術通信」に登場する。この『日本美術工芸』【図1】は、大阪の阪急百貨店が1937年に創刊した『阪急美術』を前身とし、1997年まで発行され続けた関西の月刊美術雑誌であった。当初は日本画、古美術、工芸の記事が中心であったが、戦後は「綜合美術雑誌」を名乗って関西の近現代美術も扱うようになり、1970年代まで美術批評家の活動の場となった。同年生まれの橋本と村松はある種のライバル関係にあったらしく、橋本が1946年に京都の美術家を結集する京都美術懇話会を組織すると、村松もそれに呼応するかのように1952年に大阪で抽象美術家を結集して現代美術懇談会を組織、どちらの集まりもその後の関西の美術を推進する原動力となった。また、橋本が1954年に京都の高島屋を会場に自身が選抜した新進美術家による朝日新人展を開始すると、村松も1957年に大阪の同じく高島屋で自身の選抜で朝日新人展を始め、京都と大阪で同名だが内容の異なる展覧会が毎年開かれるという奇妙な状況が生まれた。このふたつの朝日新人展は1959年に統合され大阪の高島屋での開催となり、1962年まで続く。橋本は退職後、池坊短期大学教授、朝日アートセンター館長を歴任。村松は退職後、大阪芸術大学教授、梅田近代美術館長、大阪府民ギャラリー館長を歴任した。なお、彼らの跡を継ぎ朝日新聞の美術記者となった池田弘も、退職後の1988年に高松市美術館の初代館長となっている。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202606_04_01.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;図１『日本美術工芸』第323号（1965年8月）日本美術工芸社&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;　大阪の毎日新聞社には杉本亀久雄（1920～1992）がいた。杉本は、1955年に村松が病気のため『日本美術工芸』の展評を降りると、それを引き継いだ。さらに同年、その展評欄が「美術おおさか」に改編されると、1961年に終了するまで同欄を単独で担当し続けた。杉本はまた、1956年に関西の美術記者を糾合するべく大阪市立美術館内に美術記者クラブを開設したことでも特筆される。もっとも、これはすぐに自然消滅してしまったようだ。杉本は自由美術家協会展に出品する画家でもあり、1950年のモダンアート協会の結成に参加。1966年には新聞社を辞して、以後は創作活動に専念した。ちなみに、彼の後を継いだ亀田正雄は、退職後、大阪の手塚山短期大学の教授に、その亀田の後を継いだ山村悟は大阪産業大学の客員教授となっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　1960年代後半から70年代にかけて意欲的に美術批評を展開したのが、1950年代後半に産経新聞社の美術記者になった高橋亨（1927～2021）である。高橋の批評活動が本格化するのは、1964年に同社を退職後、大阪成蹊女子短期大学助教授、さらに1971年に大阪芸術大学教授になってからのことである。1966年4月から1968年12月まで『日本美術工芸』に毎月連載した「関西の前衛」は、当時の現代美術界を知るうえで重要な資料である。高橋は1970年9月から再び同誌で「一展一作」を担当、1976年には『美術手帖』の関西の展評も担い、同時期にふたつの月刊美術雑誌で美術批評を発表した。さらに、大学教員だけでなく、1976年には大阪府民ギャラリー館長、1979年からは同ギャラリーを発展的に継承した大阪府立現代美術センターの館長を兼務し、そこでの展覧会の企画も手がけるという活躍ぶりであった。高橋はその後も、1990年に徳島県立近代美術館の初代館長、2003年から06年にかけては滋賀県立近代美術館の館長を務めている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　読売新聞社では、鈴木敬が1950年代から美術記事を担当した。1970年に入社した安黒正流（1937～2024）がそれを引き継ぎ、1990年代後半まで同紙の美術批評の顔となった。安黒は1978年に『美術手帖』の関西の展評も１年間担当している。また、後述するように、安黒は1970年代以降、関西各地で台頭してきた若い美術館学芸員や研究者に積極的に展評の機会を与え、1980年代以降の関西の美術批評の発展に寄与した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このほか、1950年代から神港新聞社、神戸新聞社で美術記者として活動し、のちに事業部に転じて展覧会企画を手がけ、1983年に姫路市立美術館の副館長となった伊藤誠（1929～2012）や、1975年1月から翌年にかけて『美術手帖』の関西の展評を担当した京都新聞社の美術記者、藤慶之の名も挙げておこう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　高橋亨を大阪芸術大学に誘い、大阪府民ギャラリーの後任館長に指名したのは、村松寛であったという。また、1960年には橋本喜三、杉本亀久雄、高橋亨、鈴木敬らが発起人となり、美術雑誌『芸術人』【図２】を創刊している。この雑誌はわずか2号で終刊となったが、先の美術記者クラブにせよ同誌にせよ、関西には美術記者に社を超えた美術批評家としての強い連帯意識があったことが窺える。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202606_04_02.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;図２『芸術人』第1号（1960年3月）芸術人編集室&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;　こうした特異な状況が生まれた背景として、関西には新聞以外に美術批評の場、美術批評家を育てる場がほとんどなかったことがある。前述のとおり、関西で継続的に発行されていた美術雑誌は『日本美術工芸』しかなく、1950年代前半にカトリック大阪教区厚生会から『関西美術』【図３】、1960年代初頭には大阪の美術報編集室からタブロイド新聞形式の『10円美術報』などが創刊されたが、先の『芸術人』の例に見るように、いずれも経済的基盤が弱く短命に終わった。また、美学や美術史の学識と国際的な視野を駆使して作品や作家の内実に深く切り込み、次代の美術を展望、時には積極的にけん引する、東京での「御三家」（針生一郎、中原佑介、東野芳明）のような美術批評家を生み出す装置、すなわち美学や美術史を専門的に教える大学も限られていた。即戦力となる書き手、美術の有識者として美術記者に需要が集中したのは、いわば必然であったといえよう。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600 section100&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202606_04_03.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;図３『関西美術』第9号（1951年1月）カトリック大阪教区厚生会&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;


&lt;h2&gt;美術家・研究者による批評の展開&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　とはいえ、美術記者以外の批評家がいなかったわけではない。その先駆けは、御三家と同世代の中村義一（1929～2015）である。京都在住の中村は、1954年『美術批評』の第１回募集新人評論に入選（第１席は東野芳明）、それを機に1956年まで同誌で活発な批評を展開する。1956年には、京都大学の大学院で物理学を学ぶかたわら美術批評を始め、中村の翌年の『美術批評』第2回募集新人評論で第1席を取った中原佑介と関西の反画壇グループを結集し、京都市美術館でグループ連合展を開催。1957年に始まった京都アンデパンダン展にも1959年まで賛助者として名を連ねるなど、関西の美術界の旧弊な体質やシステムに抗う若手美術家の理論的な指導者とも見なされた。その後、中村は1960年代半ばまで主に読売新聞で展評などを担当したが、1960年代後半に宮崎大学に教職を得て関西を離れ、以後は批評活動から遠ざかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　中村と入れ替わるように登場するのが、赤根和生（1924～1997）である。赤根は東京外国語大学卒業後、オランダ国立美術史研究所で学んだ。得意の語学力を生かし、1960年代初頭から毎日新聞社の英字新聞The Mainichi Daily News にJacque Amanoの変名で展評を寄稿。「ジャック・アマノ」はいかにも日系二世のような名前だが、じつは「あまのじゃく」をもじったものである。赤根は、美術記者とは一線を画した美術評論家を志向し、1960年代に旺盛な活動を展開した特筆すべき存在といえる。それまで東京のみを対象にしていた『美術手帖』の展評に1965年1月、関西の枠が設けられ、関西の美術動向が広く全国に紹介されるようになったのは、赤根の出版社への働きかけによるものであり、執筆者はもちろん赤根であった。この関西枠は1966年末まで2年間続いた。赤根はさまざまな媒体で美術批評や作家論を発表する一方、大阪の抽象作家集団テムポやグループ・デルタ、神戸のグループ〈位〉など関西の若手美術家の活動を支援し、「具体」のオランダ展実現にも尽力。1968年に中原佑介と共同企画し神戸そごうで開催された「現代の空間’68－光と環境」など、キュレーションも手がけた。さらに関西の諸大学で美術史を講じ、後年には大阪芸術大学教授となるなど、関西の現代美術の発展に大きな役割を果たした。ピエト・モンドリアンの研究でも知られ、日本初のモンドリアンの評伝やモンドリアンの論集を著している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　1960年代には、学術界からも美術批評家が現れた。京都市立美術大学（現・京都市立芸術大学）の教員だった木村重信（1925～2017）や国立近代美術館京都分館（現・京都国立近代美術館）の研究員だった乾由明（1927～2017）、同志社大学の教員だった中村敬治（1936～2005）などである。木村は原始美術の研究者であったが、1960年初頭から現代美術の批評を始め、ケラ美術協会など京都市立美術大学の学生や出身の美術家の取り組みを支援、吉原治良や「具体」の会員とも親しく交流した。時代や地域、民族を超えた普遍的な美意識、創造性を基盤にした独自の芸術論を展開し、1984年には民族芸術学会を創立。1997年にはその思想の集大成ともいえる『世界美術史』を刊行した。1974年に大阪大学に転じて、1980年代以降の関西の美術史学界、美術館界を支える多くの後進を育成した功績も特筆される。さらに、1989年に大阪府顧問、1992年に国立国際美術館長、1998年に兵庫県立近代美術館長、2002年には兵庫県立美術館の初代館長を歴任するなど、1960年代から2000年代まで、長きにわたり関西の美術界、文化行政において絶大な力を発揮した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その木村と双璧をなしたのが乾由明である。乾は木村と同じく京都大学で美術史を学んだ。北方ヨーロッパ美術の研究から出発したが、国立近代美術館京都分館に赴任後はフランスや日本の近代美術、さらには関西の現代美術へと視野を広げた。1967年、同館が京都国立近代美術館に改称したのを機に創刊された美術館ニュース『視る』に展評欄「くろにくる」が設けられると、1970年に同欄が終了するまで主に京都のギャラリーの展評を担当している。1970年には母校に戻り後進の指導に努めるかたわら、退職する1991年まで『美術手帖』や『みづゑ』などに展評や作家論を寄稿、堅実な文体は熱い語り口を特徴とした木村のそれと好対照をなした。乾はまた、関西で盛んでありながら研究や批評の対象になってこなかった近現代陶芸に着目した点でも特筆される。なかでも、戦後いち早くオブジェとしての陶芸を標榜した走泥社の活動を高く評価した。その背景には、実家である高級料亭「播半」で幼いころから古美術品や工芸品に親しんだ体験があるとされる。こうしたことから、1992年に刊行が開始された『日本の陶磁 現代編』全8巻では責任編集を担い、1997年には金沢美術工芸大学の学長に招かれ、2005年からは兵庫県陶芸美術館の初代館長を務めた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　木村、乾より約10年若い中村敬治は、1960年代後半から関西の現代美術ギャラリーを丹念に回り、新聞や雑誌で展評を始めた。中村は、美術団体や美術グループから個人へと活動単位が変化し、既存の社会体制や価値観に反抗するいわゆる「団塊の世代」が台頭する時代にいち早く反応した批評家といえる。1978年から86年にかけて読売新聞で展評を連載、それまで関西では主流であった微温的な批評を否定し、時に辛辣な言葉で本質をえぐる筆鋒で知られた。中村はまた、このころ新しい表現分野として台頭した実験映画に着目し、その関心はその後ビデオアートなどのニュー・メディアへと発展した。1986年には20年間勤めた同志社大学を辞して国立国際美術館の主任研究官となり、同館で関西の若手美術家の個展や現代美術のテーマ展を積極的に企画するが、1995年、当時はまだ開設準備段階だった東京のNTTインターコミュニケーション・センターに転出、関西を去った。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　その他、1961年から1972年に東京の成城大学に転出するまで約10年に渡り『三彩』で「京阪の美術」を担当し、関西の美術動向を全国に発信し続けた田中日佐夫も記憶しておきたい。&lt;/p&gt;


&lt;h2&gt;批評の担い手と場の拡大&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　1970年代半ばから、関西の美術批評の主体は、かつての美術記者から中村のような戦後世代、さらには戦後生まれの研究者や美術館学芸員へと移行していく。1950年代から60年代にかけて、伝統の否定、制度、概念の解体、素材や技術、表現の革新を続けた美術は、モダニズムという神話、「大きな物語」の緩やかな崩壊とともに、「世界とは何か？」「存在とは何か？」「絵画とは何か？」「彫刻とはなにか？」といった形而上学的、自己言及的な問いの追求へと方向転換していく。美術批評にも、それまでの美術史、美学だけでなく哲学の素養や高度な専門性、そうした課題にふさわしい思考や言葉が求められるようになる。美学や美術史を教え学芸員資格を授ける私立大学が増え、公立・公設の美術館が次々と誕生し、批評の場や批評の担い手となる土壌が一気に拡大したこともあり、美術館やギャラリーでの企画展やそのカタログ、DMのテキストが美術批評の場となった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　例えば、1972年、5年ぶりに復活した『美術手帖』の展評の関西枠を担当した平野重光（1940～）は京都市美術館の学芸員で、1972年から76年にかけて同館で「京都ビエンナーレ」を企画した。1979年に『美術手帖』の展評を担当した山脇一夫（1948～）は兵庫県立近代美術館の学芸員であった。その山脇とともに1970年代後半、読売新聞のコラム「ミニ作家論」を担当した中島徳博（1948～2009）もまた同館の学芸員であり、両者は同館で関西の若手美術家を対象にした「アート・ナウ」を担当している。さらに1977年には、大阪万博の万博美術館建物を再利用する形で開館した関西初の現代美術館、国立国際美術館の研究員、建畠晢（1947～）が、「ミニ作家論」の執筆陣に加わった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　1980年代に入ると、学術界ではニュー・アカデミズムと総称される従来のアカデミズムの枠を逸脱した領域横断的、ポスト・モダニズム的な思考、言論が盛んとなる。1987年から『美術手帖』の展評の関西枠が東京と同じ2名体制になったのも、それまでの東京中心の考え方への反省と無関係ではないだろう。折から関西では、1970年代の簡潔で禁欲的、難解なテーマから一転、具象的なイメージ、派手な色彩、私的なテーマを特徴とするいわゆる「関西ニューウェイブ」の美術家たちが台頭する。大阪芸術大学の教員だった篠原資明（1950～）は、そうした彼らの活動を『美術手帖』などのメディアで積極的に評価し、東京の美術ジャーナリズムやギャラリーが関西の美術家に熱い視線を送るきっかけを作った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　同じく1987年には京都芸術短期大学（現・京都芸術大学）から、関西の美術の批評に特化した雑誌『A＆C』【図４】が創刊される。同誌は、建畠と篠原、森口まどか、尾﨑信一郎（1962～）が編集委員を務め、美術史や美学、哲学などを学ぶ大学院生や若手の美術館学芸員にも執筆を広く呼びかけて、その後の美術批評家の開拓に寄与した。編集委員以外の常連の執筆者として、那賀裕子＋貞彦、出川哲朗（1951～）、安田篤生（1963～）、中谷至宏 （1960～）、山崎均、奥村泰彦（1963～）、潮江宏三（1947～）、大森淳史（1954～）などがおり、当時20代前半の大学院生だった筆者も末席を汚していた。この『A＆C』は、大学が母体だったこともあって、関西の美術雑誌としては珍しく1994年まで７年間発行され続けた。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600 section100&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202606_04_04.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;図４『A＆C』第1号（1987年7月）京都芸術短期大学芸術文化研究所&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;


&lt;h2&gt;ネット時代の美術批評と地域性のゆくえ&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　さて、ここまで1940年代後半から90年代前半までの約半世紀の関西の美術批評史を概観してきたが、『A＆C』の終刊後の動向をさらにこの形で概観することは、もはや筆者の手に余る。1995年は「インターネット元年」とされるが、2000年代に入るやこの新たなメディアが爆発的に普及、ブログに始まり、2010年代以降はSNSで個人が気軽に「批評」を発信する時代に突入する。それまで美術批評を制度的に保証していた新聞や美術雑誌は存在感を失い、もともと確たる定義はないとはいえ、どこまでを「美術批評」、どのような存在を「美術批評家」と見なすのかの共通認識もまた、曖昧模糊となっていく。かつては有力な批評家が美術の方向を理論づけ、作家や作品の価値付けに大きな影響を与えてマーケットを動かしたが、批評がリゾーム化し中心が見えなくなった2000年代以降は、誰にでも分かりやすい指標として「売れる」ことが作品の価値となり、むしろマーケットの評価を批評が後付けしている観もある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　さらに批評自体も多様化、重層化している。1970年代には美術批評に美学や美術史だけでなく哲学が大きく関わってきたが、脱領域化はますます進み、今日では社会学的、政治学的、視覚文化論的な側面からの美術批評も盛んである。しかし、その分、ますます難解な内容になっていることも否めない。また、物理的な空間を超えるインターネットの特性は、地域・地方のハンディを解消したが、言い換えれば全国各地域・地方の東京化、あるいは均質化ともいえる状況を生んで、その土地ならではの美術、ひいては文化の特色、独自性も希薄化しつつある。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　そんななか、批評や批評的行為が地域・地方の美術の創造性を刺激し育むことを実証する場として、辛うじて生き残っているのが美術館である。前身の兵庫県立近代美術館で「アート・ナウ」や県下の美術家を対象にした「兵庫の美術家」を開催していた兵庫県立美術館では、2010年から若手美術家を紹介する「注目作家紹介プログラム〈チャンネル〉」を継続している。また、2021年に開館した大阪中之島美術館は、関西・大阪21世紀協会と共同で関西ゆかりの若手作家を中心に個展形式で紹介する「Osaka Directory」を、京都文化博物館は京都を中心に活動する新進の若手作家を紹介する「京都府新鋭選抜展」を開催している。国主導で美術館の観光資源化、集客装置化がどんどん進められるかげで、館内のアトリエや多目的スペースなどを使いひそやかに続けられている小企画展が多いが、なんとか踏み留まってほしいものである。&lt;br/&gt;
（文中の人物の生没年については明らかなもののみ記した。）&lt;/p&gt;


&lt;h3 class=&quot;section20&quot;&gt;参考資料&lt;/h3&gt;

&lt;div class=&quot;entry_bodies&quot;&gt;
&lt;ul class=&quot;section165&quot;&gt;
&lt;li class=&quot;mb20&quot;&gt;
大阪中之島美術館　戦後日本美術オーラルヒストリー　07. 高橋亨&lt;br/&gt;
&lt;a href=&quot;https://nakka-art.jp/wp10/PDF_ORAL/07_takahashi.pdf&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://nakka-art.jp/wp10/PDF_ORAL/07_takahashi.pdf&lt;/a&gt;&lt;br/&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;li class=&quot;mb20&quot;&gt;
Speaking About「A&amp;Cのこと」　原久子（元A&amp;C編集者）&lt;br/&gt;
&lt;a href=&quot;https://www.youtube.com/watch?v=mnEaDa4iWFc&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://www.youtube.com/watch?v=mnEaDa4iWFc&lt;/a&gt;
&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;/div&gt;


&lt;!-- プロフィール --&gt;
&lt;section class=&quot;profile mt60&quot; id=&quot;_profile&quot;&gt;
&lt;header&gt;
&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;PROFILE&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;プロフィール&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;		
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;javascript:window.location.href = location.pathname;&quot;&gt;&lt;span&gt;記事の冒頭に戻る&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/header&gt;
&lt;section&gt;
&lt;h4 class=&quot;secTitSty02&quot;&gt;平井章一　|　HIRAI Shoichi&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;
1962年、京都府生まれ。関西大学教授。博士（文学）。兵庫県立近代美術館学芸員（1988～2002年）、兵庫県立美術館学芸員（2002～06年）、国立新美術館主任研究員（2006～12年）、京都国立近代美術館主任研究員（2012～18年）などを経て、2018年から現職。著書に『「具体」って何だ？』（美術出版社、2004年）など。
&lt;/p&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;/section&gt;
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				<item class="row1">
				<data>&lt;figure class=&quot;mv&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.ameet.jp/wordpress/wp-content/uploads/202607_02_00.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/figure&gt;
&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;スイス絵画の異才　カール・ヴァルザー&lt;/h1&gt;&lt;dl class=&quot;eventDateBox&quot;&gt;&lt;dt&gt;日時&lt;/dt&gt;&lt;dd&gt;&lt;p class=&quot;eventDate&quot;&gt;2026年7月4日（土）&lt;span class=&quot;dib&quot;&gt;～9月27日（日）&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class=&quot;eventStatus open&quot;&gt;開催中&lt;/p&gt;&lt;/dd&gt;&lt;/dl&gt;&lt;dl class=&quot;placeBox&quot;&gt;&lt;dt&gt;会場&lt;/dt&gt;&lt;dd&gt;&lt;p class=&quot;place&quot;&gt;大阪中之島美術館&lt;/p&gt;&lt;/dd&gt;&lt;/dl&gt;&lt;div class=&quot;cat&quot;&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/pick-up-events/category/京都市以外/&quot;&gt;京都市以外&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/pick-up-events/category/展覧会/&quot;&gt;展覧会&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 07 04&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div id=&quot;page_tabs&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;entry_bodies&quot;&gt;

&lt;p&gt;
カール‧ヴァルザーは、 20世紀前半に活躍したスイスの美術家です。 20歳代からの約四半世紀をドイツの⾸都ベルリンで過ごし、象徴主義や印象主義など新しい芸術潮流に触れながら、優美な線や⾊彩に深い意味を潜ませた、独⾃の画⾵を築きました。画家として、当時最先端の美術団体であったベルリン分離派の中枢を担う⼀⽅で、新進気鋭の演出家マックス‧ラインハルトと協働するなど、舞台美術家としても活躍。書籍の挿絵や室内装飾、壁画も⼿がけました。 1908年（明治41）には⽇本へ旅⾏し、京都の宮津をはじめ各地に滞在。歌舞伎や祭など、明治期の⽇本の⾵俗や⾵景を⽣き⽣きと描いています。⽣前の⼈気にもかかわらず⻑らく歴史の闇に埋もれていたヴァルザーは、祖国スイスでも近年に再評価が始まったばかりです。本展は⽇本初の回顧展であり、出品作すべてが⽇本初公開です。スイス絵画の異才、ヴァルザーの創作の軌跡を、絵画や素描など約150点の作品でご覧ください。
&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section60&quot;&gt;&lt;small&gt;メインビジュアル：カール・ヴァルザー 《歌舞伎の一場面（『壇浦兜軍記』より「阿古屋琴責」）》 1908 年 ゴットフリート・ケラー財団（新ビール美術館寄託）&lt;/small&gt;&lt;/p&gt;


&lt;!-- 開催概要 --&gt;
&lt;table class=&quot;events_info tbl_fixed&quot; summary=&quot;イベント情報&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; border=&quot;0&quot;&gt;
&lt;tbody&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th width=&quot;180px&quot; scope=&quot;row&quot;&gt;展覧会名&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
スイス絵画の異才　カール・ヴァルザー
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;開催日時&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
2026年7月4日 - 2026年9月27日
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;会場&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
大阪中之島美術館
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;詳細&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
&lt;a href=&quot;https://nakka-art.jp/exhibition-post/karlwalser-2026/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt; 	
https://nakka-art.jp/exhibition-post/karlwalser-2026/&lt;/a&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;/tbody&gt;
&lt;/table&gt;
&lt;!-- 開催概要 END --&gt;

&lt;!-- ソーシャルリンク --&gt;
&lt;div class=&quot;socialWrapper&quot;&gt;
&lt;nav class=&quot;catList&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/pick-up-events/category/京都市以外/&quot;&gt;京都市以外&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/pick-up-events/category/展覧会/&quot;&gt;展覧会&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;span class=&quot;line&quot;&gt;&lt;/span&gt;
&lt;/nav&gt;
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&lt;/nav&gt;
&lt;/div&gt;
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}
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			</item>
				<item class="row1">
				<data>&lt;figure class=&quot;mv&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.ameet.jp/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_00.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/figure&gt;
&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;「かたちの作法：実験場としての彫刻科（1953－1979）」（京都市立芸術大学芸術資料館）&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;文：各務文歌&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div class=&quot;cat&quot;&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/events/category/展覧会/&quot;&gt;展覧会&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 07 16&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;leadWrapper&quot;&gt;
&lt;p class=&quot;lead&quot;&gt;
京都市立芸術大学芸術資料館で、同大美術学部美術科彫刻専攻の戦後のあゆみに注目する展示「かたちの作法：実験場としての彫刻科（1953－1979）」が開かれている。会場では1950年からの彫刻科の教員および卒業、修了生の作品29点と、当時のカリキュラム表や年報などの資料を並置。戦後の国際的な抽象美術の動向と響き合いながら行われた造形教育の一断面をひらき、今につながる彫刻の多彩な展開の源泉を照らし出す。会期は８月２日（日）まで。
&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;author&quot;&gt;
編集：JODO編集室&lt;br/&gt;
メインビジュアル：展示風景、撮影筆者
&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;#page1__profile&quot; onclick=&quot;gtag(&#039;config&#039;, &#039;UA-10908285-2&#039;, {&#039;page_path&#039;: &#039;events/6238/1/&#039;});&quot;&gt;&lt;span&gt;プロフィールを読む&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/div&gt;


&lt;h2&gt;教育の改革、思考の実験場としての彫刻科&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;1880年創立の京都府画学校を前身とし、1950年に大学へと改組された京都市立美術大学（現・京都市立芸術大学）。その彫刻科では、当時教鞭をとっていた辻晉堂と堀内正和により、1953年にカリキュラムの刷新が行われた。辻は具象的なモチーフから出発し、後に抽象的な陶彫作品で国際的に活躍。堀内は幾何学的な構成の抽象彫刻で戦後の彫刻界に重要な位置を占める作家だ。従来の人体塑像を基本とした彫刻教育に代えて、新たに導入された立体構成の教程は、線と面による制作法を基礎として、形そのものから思考することに主眼を置く。次世代の抽象彫刻の土壌を切り拓いていく、先進的な試みだった。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;会場には様々な素材による作品が並び、開拓期ならではの熱量を帯びた空気が伝わってくるようだ。順に見ていこう。&lt;/p&gt;


&lt;h2&gt;素材と表現の多様な展開（1950～2000年代）&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;入って左手には、カリキュラム刷新前後の石膏作品2点をはじめ、陶土、木彫、ブロンズ、鉄、石彫などの作品が並ぶ。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_01.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;展示風景、撮影筆者&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;八木一夫、林秀行のオブジェ陶では、抽象的な造形が前景化する。前衛陶芸集団、走泥社の中心人物として知られる八木は、1957年から非常勤講師として彫刻科に勤務しており、辻にも大きく影響を与えた人物だ。のちに現代陶芸の分野で活躍する林秀行の《ピアノの日向ぼっこ》は2001年の寄贈作品。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_02.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;八木一夫《壁体》1963年、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;野崎一良《作品26》は、矩形をベースに羽根のように広がる形と面の構成に、空間を裂くようなエッジの造形が洗練されている。本作は1965年に京都国立近代美術館で開催された「現代美術の動向」展の出品作でもあり、そのポスターにも採用された。このことについて本展示を企画担当した学芸員・菊川亜騎は「1963年から1970年まで毎年開催された「現代美術の動向」展は、京都を現代美術の拠点として全国に認知させる契機となった展覧会。野崎をはじめ今展の出品作家の多くが同展に参加しており、京都における現代美術の展開と、彫刻科研究室の教育・研究活動は密接にかかわっています」と語る。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_03.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;野崎一良《作品26》1965年、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600 section100&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_04.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;「現代美術の動向」（1965年、京都国立近代美術館）、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;


&lt;h2&gt;「かたち」の思索——卒業制作と辻・堀内作品&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;次に展示ケース外の彫刻作品を見てみよう。ここで印象的なのは、これらの多くが当時の卒業制作の買上げ作品で構成されていることだ。その中に辻、堀内による同時期の作例が置かれ、学生たちの彫刻と響き合うような眺めが生まれている。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_05.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;会場風景、撮影筆者&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;入口すぐ手前の壁際の2点は、欠田誠、井上平八郎のセメント彫刻。複数のブロックが組み合わされたような構造とサイズ感も相まって、一見すると同じ作家の作品のようにも思える。しかし近づいて観察すると、表面の肌理や色あいに細かな違いがあり、各人が独自のアプローチで素材と向き合っていたことが伝わる。セメントは当時、安価で扱いやすく、また民主的な彫刻の新素材として流行していた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;本展の出品作ではないが、資料館を出てすぐの場所にある幸野楳嶺の胸像もセメント製だ。これは元々学内にあったブロンズ像が戦中の金属供出により失われ、戦後、研究室に残っていた石膏原型を元に、辻が学生らと共に制作したものだという。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_06.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;セメントによる幸野楳嶺像、撮影筆者&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;奥に進むと滝口勝、辻浩、村上孝義、北原昭一らの木彫作品が続く。木の有機的な風合いを生かし、曲線を主体にしたものが多い。それらの中にあって、ちょうど中間に置かれた辻の《拾得》の存在が光る。テラコッタの凸凹した体躯に碍子（がいし）などを埋め込んだユニークな造形となっている。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_07.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;辻晉堂《拾得》1960年、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;最奥には堀内正和の《咬み合う立方体》、山崎脩の《素材と形の間’81》。どちらも高さのある柱状の金属オブジェだ。山崎の作品は、鉄の重量感と相反するような面の構造に特徴があり、堀内のステンレス作品は、異なる質感の立方体による幾何学的な構成に、理論に裏打ちされた造形美が体現されている。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600 section100&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_08.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;堀内正和《咬み合う立方体》1974年、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;


&lt;h2&gt;カリキュラムの変遷と内外への発信——6月祭、年報、学外展示&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;展示ケース内ではそれぞれ、当時のカリキュラム表、そして作家らの交流と内外への発信の記録として、年報などの資料を配置する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;手前のケースに並ぶのは、1956～78年までの彫刻科の基礎カリキュラム表だ。「線・面・量」という幾何学的な構成の学習を起点に、自然形態の観察、人体へと進み、さらに材質とかたちの関係へと移行する流れに特徴がある。かたちの根源にある要素を論理的に解体するこの造形教育は、当時、全国的にも注目を集めていた。ほかにも実技の履修案内や、「木彫」「石彫」など各種工房が手書きされた教室配置図なども置かれ、4年間で素材の扱いを網羅的に身につける、当時の学習環境がよく伝わる。ここで行われたかたちの学びは、その後「彫刻基礎」と総称され、約20年にわたり継承された。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_09.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;彫刻科授業日程表 原本、1967年、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_10.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;1年生授業風景 堀内正和と橋本典子、1958年、個人蔵、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;奥のケースでは、1960～70年に刊行された「京都市美術大学彫刻科年報」全11巻を展示している。ここでは教員、卒業生、在学生によるエッセイや展覧会の出品記録、ゼミ旅行や近況報告などが掲載されており、当時の活発な交流や活動の様子を知ることができる。年報の右側には1965年の年報制作時の校正原稿。福島敬恭が滞在先のニューヨークからエアメールで参加するなど、多彩な顔ぶれが文章を寄せている。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_11.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;『京都美術大学彫刻科年報』（1960-70年）および年報資料、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;資料館には年報のほか、学外とのつながりの機会となった「6月祭」や、京都、東京で開催された展覧会の関連資料も残る。1951年6月に彫刻科が今熊野の分校舎へ単独移転したことを機に始まった「6月祭」は、ほかの専攻の学生たちも含め、世代を超えた交流の場となった。やがて学外の新聞社や批評家、ギャラリストらも招待するなど、外部へのプロモーションの場としても機能していく。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また、同様に外とつながる試みとして、1954年頃からは学外で「彫刻科展」の展覧会を開始し、これは京都だけでなく東京でも開催された。東京から距離のある京都の地で制作を続けるにあたり、東京での活動経験がある辻と堀内は、こうした場の重要性を強く意識していたのだろう。目録を兼ねた当時の案内状なども残されており、彼らの眼差しが垣間見える貴重な資料となっている。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_12.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;彫刻科６月祭、1963年６月８日、個人蔵、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800 section100&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_13.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;「美大彫刻科展」案内はがき、1956年、画像提供：京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;


&lt;h2&gt;屋外彫刻作品、現代につながるかたちの作法&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;本展では大学構内に設置された外尾悦郎、上田弘明、佐野賢、北野正治らの屋外彫刻作品5点も紹介している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;2026年6月に「イエスの塔」が完成し、大きな節目を迎えたサグラダ・ファミリア（バルセロナ聖家族教会）。その主任彫刻家を務めた外尾悦郎も、同大の卒業生の一人だ。キャンパス内の石膏作品《天使の像》は2024年に寄贈されたもので、石像に置き換わるまでの10年間、現地で実際に設置されていたものだという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;戦後、同大の彫刻科で育まれた「かたちの作法」ともいえる教えは、抽象・具象の枠を超えて、表現に向き合うための基礎力や思考の土台として息づいていった。その確かな力が国や時代を越え、百年以上前の建築群と現代をつなぐ架け橋となっていることも、また興味深い。ぜひキャンパス内の作品も巡りながら鑑賞してもらいたい。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202607_01_14.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;外尾悦郎《天使の像（バルセロナ聖家族教会装飾彫刻原型）》1990年、撮影筆者&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;なお、2027年２月には京都市京セラ美術館で「思考する彫刻家　ラファエル・ザルカと堀内正和」展が開催予定だ。併せてぜひ訪れたい。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section165&quot;&gt;&lt;a href=&quot;https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20270206-20270505&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20270206-20270505&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;


&lt;!-- 開催概要 --&gt;
&lt;section class=&quot;related section110&quot;&gt;
&lt;header&gt;
&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;Events Information&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;展覧会情報&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;
&lt;/header&gt;
&lt;h4&gt;
「かたちの作法：実験場としての彫刻科（1953－1979）」
&lt;/h4&gt;
&lt;table class=&quot;events_info tbl_fixed mb55&quot; summary=&quot;展覧会情報&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; border=&quot;0&quot;&gt;
&lt;tbody&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th width=&quot;100px&quot;&gt;会期&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
2026年６月６日〜８月２日
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th&gt;会場&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;京都市立芸術大学芸術資料館&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th&gt;詳細&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;&lt;a href=&quot;https://libmuse.kcua.ac.jp/muse/exhibition/2021/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://libmuse.kcua.ac.jp/muse/exhibition/2021/&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;/tbody&gt;
&lt;/table&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;!-- 開催概要 END --&gt;


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&lt;h4 class=&quot;secTitSty02&quot;&gt;各務文歌｜KAGAMI Fumika&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;ライター。岐阜県出身。浄土複合ライティング・スクール1期生。ウェブメディアに展覧会評・舞台作品評など寄稿。京都新聞にてギャラリー評を担当。&lt;/p&gt;
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&lt;!-- プロフィール END --&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</data>
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