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	<br />
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				<item class="row1">
				<data>&lt;figure class=&quot;mv&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.ameet.jp/wordpress/wp-content/uploads/202602_02_00.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/figure&gt;
&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;京の鳥瞰図絵師　吉田初三郎 – 没後70年によせて &amp;#8211; &lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;文・写真：松尾 惠（MATSUO MEGUMI + VOICE GALLERY pfs/w）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 04 24&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;leadWrapper&quot;&gt;
&lt;p class=&quot;author&quot;&gt;写真＝ショーウインドーのポスター（筆者撮影）&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;#page1__profile&quot; onclick=&quot;gtag(&#039;config&#039;, &#039;UA-10908285-2&#039;, {&#039;page_path&#039;: &#039;feature//1/&#039;});&quot;&gt;&lt;span&gt;プロフィールを読む&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/div&gt;


&lt;p&gt;「大正の広重」と呼ばれた鳥瞰図絵師の吉田初三郎（1884年- 1955年）。生涯に約1600点制作したその作品は、「初三郎式鳥瞰図」と称された。左右を上部へ大胆にU字に曲げた独特のデフォルメでは、たとえば、兵庫県の有馬温泉から右に六甲山地を越えなければ見えない瀬戸内海、左の奥には、さらに見えるはずのない富士山が描かれている。本展では、パネル展示、保存状態のよい鳥瞰図実物をふんだんに鑑賞できた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「初三郎式鳥瞰図」は、大正から昭和にかけての観光ブームにより、大人気となった。それまで山、谷、川を越えて歩くいわば命懸けの「旅」は、鉄道網や航路の発達によって、気軽で楽しい「旅行」へと変化した。本展展示品の鳥瞰図には、旅への夢や当時の高揚が溢れる。いまや幻となった遊園地や鉄道路線などにもさまざまに想像がかきたてられる。描かれた地形や観光名所は、GoogleマップやGoogleアースなどよりも遥かに魅力的で立体的である。鳥瞰図は、旅先から自宅や友人・知人などに絵葉書のように郵送したそうで、折り畳んだオモテに住所や切手欄が設けられている。受け取った人のもとで大切に保存され時を旅してきたそれらが、本展を鮮やかに彩っていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;展示物のほか、解説文にある人物や時代にまつわるエピソードも興味深い。吉田初三郎は、描く場所に赴き、詳細な調査・観察をしたという。大胆なデフォルメも、時間や空間を体感したからこそだろう。また、絵が好きな子供時代を経て、洋画の師であった鹿子木孟郎に「商業美術家」への転身を勧められのが鳥瞰図作家としてのスタートであったという。時代的には、美術という概念の成立からしばらく経った明治時代の終わりであり、近代的な日本美術がかたちづくられていく頃だ。ともに近代化を越えようとした師弟が本当のところ何を語り合ったのか、たいへん好奇心が湧く。本格的な活動は、転身からしばらく後、〈京阪電車御案内〉が皇太子（のちの昭和天皇）に賞賛されたことがきっかけとなる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;吉田初三郎の人生は日本の近代化と重なり、絵師であることに加えて、ジャーナリスト的な側面も興味深い。観光ブームの最中に起こった関東大震災の1年後に、大阪朝日新聞の付録〈関東大震災全地域鳥瞰圖繪〉を制作している。オリジナリティーあふれる鳥瞰図をフルに活かして、東京だけでなく、横浜、千葉、小田原方面の被災状況も描いている。その反面、「初三郎式鳥瞰図」には港湾等の軍事機密が見て取れるとして、戦時中にはスパイ的と厳しい取り締まりを受ける。しかし、驚くことに、戦後は広島に転居し、〈HIROSHIMA〉と題する原爆被害の鳥瞰図を制作した。観光案内図の制作をつうじて、土地ごとに生きる人々への思いも現実的であったのだろう。芸術的概念にのみとらわれなかった商業美術家としての矜持、偉業であると思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;会場で無料配布の展示解説集（冊子）は、重要な鑑賞の助けとなった。展示資料リストや、22ページにわたる京都府立京都学・歴彩館所蔵の吉田初三郎作品一覧（266点、うち京都関係鳥瞰図40点）では、ほとんどにQRコードが付され、作品画像を見ることができる。２階京都資料総合閲覧室に、本展の関連資料コーナーが設けられ、吉田初三郎に関する資料、鳥瞰図をテーマとした展覧会図録や研究書、吉田初三郎以外の鳥瞰図など、３１種の資料が閲覧できた。リストは、以下のとおり。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a target=&quot;_blank&quot; href=&quot;https://rekisaikan.jp/cms/wp-content/uploads/3458b1389b0b0647207c51e47d16f39c.pdf&quot;&gt;https://rekisaikan.jp/cms/wp-content/uploads/3458b1389b0b0647207c51e47d16f39c.pdf&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202602_02_01.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;ハンドアウト：展示解説集、京都府立京都学・歴彩館所蔵の吉田初三郎作品一覧&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w800 section100&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202602_02_02.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;無料配布のリーフレット。見開きに現代の鳥瞰図が記載されている&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;


&lt;!-- 開催概要 --&gt;
&lt;section class=&quot;related section110&quot;&gt;
&lt;header&gt;
&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;Events Information&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;展覧会情報&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;
&lt;/header&gt;
&lt;h4&gt;京の鳥瞰図絵師　吉田初三郎 – 没後70年によせて -&lt;/h4&gt;
&lt;table class=&quot;events_info tbl_fixed mb55&quot; summary=&quot;展覧会情報&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; border=&quot;0&quot;&gt;
&lt;tbody&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th width=&quot;100px&quot;&gt;会期&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
2025年11月15日（土）〜12月7日（日）&lt;br/&gt;
＊平日　9:00〜18:00、土日　9:00〜17:00&lt;br/&gt;
＊11月23日（日）・24日（月）休館
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th&gt;会場&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
&lt;strong&gt;京都府立京都学・歴彩館　１階展示室&lt;/strong&gt;&lt;br/&gt;
〒606-0823　京都市左京区下鴨半木町1-29&lt;br/&gt;
TEL： 075-723-4831　FAX：075-366-4830 &lt;br/&gt;
&lt;a href=&quot;https://rekisaikan.jp&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://rekisaikan.jp/&lt;/a&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th&gt;主催&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
京都府立京都学・歴彩館
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;/tbody&gt;
&lt;/table&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;!-- 開催概要 END --&gt;


&lt;!-- ソーシャルリンク --&gt;
&lt;div class=&quot;socialWrapper&quot;&gt;
&lt;nav class=&quot;catList&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/events/category/展覧会/&quot;&gt;展覧会&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;span class=&quot;line&quot;&gt;&lt;/span&gt;
&lt;/nav&gt;
&lt;nav class=&quot;socialList&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;socialListTitle&quot;&gt;SHARE&lt;/div&gt;
&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;javascript:void(0);&quot; onclick=&quot;snsLink(&#039;https://twitter.com/intent/tweet?url=&#039;);&quot;&gt;&lt;i class=&quot;fa fa-twitter&quot;&gt;&lt;/i&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;javascript:void(0);&quot; onclick=&quot;snsLink(&#039;https://www.facebook.com/sharer/sharer.php?u=&#039;);&quot;&gt;&lt;i class=&quot;fa fa-facebook-official&quot;&gt;&lt;/i&gt;&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/nav&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;script&gt;
function snsLink(u){
　const url = u + location.href;
　window.open(url, &#039;_blank&#039;)
}
&lt;/script&gt;
&lt;!-- ソーシャルリンク END --&gt;


&lt;!-- プロフィール --&gt;
&lt;section class=&quot;profile&quot; id=&quot;_profile&quot;&gt;
&lt;header&gt;
&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;PROFILE&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;プロフィール&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;
&lt;/header&gt;
&lt;section&gt;
&lt;h4 class=&quot;secTitSty02&quot;&gt;松尾惠｜MATSUO Megumi&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;1986年にVOICE GALLERY（現 MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w）を開設。&lt;br/&gt;
公益財団法人京都市芸術文化協会理事（京都芸術センター指定管理者）や、ギャラリー運営の経験を活かして、長年、京都・大阪の芸術系大学においてアートマネジメント、現代美術、鑑賞教育などに関する非常勤講師をしている。&lt;br/&gt;
ギャラリーでは、若手・中堅アーティストの企画展、考古学・物理学の研究者、舞台芸術との協働、 1960年代メディアアートの再考などを主な活動としている。&lt;/p&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;!-- プロフィール END --&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</data>
			</item>
				<item class="row1">
				<data>&lt;figure class=&quot;mv&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.ameet.jp/wordpress/wp-content/uploads/202601_06_00.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/figure&gt;
&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;特集　博覧会が生み出すもの&lt;/span&gt;ハレの場・岡崎の成立&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;文：藤井容子（京都岡崎魅力づくり推進協議会コラボレーター）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div class=&quot;cat&quot;&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/feature/category/美術/&quot;&gt;美術&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 04 14&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;!-- 導入 --&gt;
&lt;div class=&quot;leadWrapper&quot;&gt;
&lt;p class=&quot;lead&quot;&gt;
大きな博覧会が終わった。広大な土地を開発し、建築物を造り、数多の人びとが集った祝祭は、終われば元通りになるわけではない。&lt;br/&gt;
太陽の塔は言わずもがな、エッフェル塔も1889年のパリ万博で建てられ、その場所のシンボルとして現在でも欠かせない存在である。京都においても、岡崎公園は第4回内国勧業博覧会の跡地に開かれたものだ。&lt;br/&gt;
物質面だけではない。技術や文化、価値などの面でも、博覧会がもたらすイノベーションは計り知れない。&lt;br/&gt;
博覧会によって、未来に何が遺るだろうか？ 過去の博覧会が遺したものを見てゆく。
&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;author&quot;&gt;
メインビジュアル：「第四回内国勧業博覧会図譜及看覽人心得」1895年、第四回内国勧業博覧会事務局&lt;br/&gt;
（&lt;a href=&quot;https://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail?cls=152_old_books_catalog&amp;pkey=0000000236&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;京都府立京都学・歴彩館　歴史資料アーカイブより&lt;/a&gt;）
&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;#_profile&quot; onclick=&quot;gtag(&#039;config&#039;, &#039;UA-10908285-2&#039;, {&#039;page_path&#039;: &#039;feature/6141/1/&#039;});&quot;&gt;&lt;span&gt;プロフィールを読む&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;!-- 導入 END --&gt;



&lt;p&gt;京都、洛東（らくとう）。鴨川の東にある岡崎公園は、美術館、図書館、劇場、動物園などが集まる市内随一の文教ゾーンである。そこはまた、休日にはフリーマーケットやイベントが開かれ、広い街路を祭りやパレードが練り歩き、会館やホールでは式典や発表会が執り行われるハレの場、祝祭の空間でもある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;現在の岡崎公園のこうした晴れがましい空気感は、この場所が直近では明治28（1895）年に開催された第四回内国勧業博覧会の主会場として整備された場所であるというルーツの影響を強く受けたものである。だが、それだけでここまでの色はつくまい。それまで田畑が広がっていた土地に、明治28年、突如として煌びやかなワンダーランドが出現した。第四回内国勧業博覧会という夢の時間は4か月で閉幕するが、夢はその後も形を変えて、幾度となくこの地にあらわれた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;大正4（1915）年、大典記念京都博覧会。昭和3（1928）年、大礼記念京都大博覧会。二度の天皇即位記念博覧会を筆頭に、大正10（1921）年に戦後発展全国工業博覧会、大正13（1924）年に東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会、大正15（1926）年には皇孫ご誕生記念こども博覧会（京都）と、明治末期から大正、昭和初期にかけての戦前に、数々の博覧会が開催されてゆく。加えて、三大事業起工式、日露戦争戦勝記念祝賀会など、多くの祝賀会や式典が岡崎で行われてきた。また、京都での博覧会の歴史は民間主導で明治4（1871）年に西本願寺書院で開催された京都博覧会に遡るが、これも大正3（1914）年以降は岡崎の京都市勧業館に会場を移し、以降、昭和3（1928）年までほぼ毎年開催された。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それぞれはひと刷きでも、塗り重ねられれば濃く色づく。時を経て、色は土に染み込み、土壌となって、場所性として醸成していく。新しいところでは、2012年に始まった京都マラソンにおいても、西京極の総合運動公園を出発して京都市内を縦横にめぐった1万5000人のランナーが最後にめざすのは平安神宮応天門前のゴールである。130年、積み重ねられた歴層のもっとも表層。それが現在の岡崎である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;だが、その130年自体が、土地そのものにとってはごく表層にすぎない。岡崎に残る歴史の痕跡で最も古いものは、現在の京都市動物園で出土した偶蹄類（オオツノジカ）の足跡である。彼または彼女がここに足跡を遺した2万数千年前から今にいたる時間と空間の連鎖と断続こそが現在の岡崎をかたちづくっている。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 section100 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_06_01.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
「大典記念京都博覧会　第一会場夜景」大正4（1915）年&lt;br/&gt;
（『大典記念京都博覧会写真帖』より。個人蔵）
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;



&lt;h2&gt;岡崎以前──盛り場でも聖地でもなかった場所&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;地理的に見ると、白川が形成する扇状地が岡崎の基盤であり、その成立は東山の地質に拠る。比叡山と大文字山の間に、もろく崩れやすい花崗岩帯がある。この部分の地表で風化が進み、大量の砂が押し流され、扇状地を形成したのだ。この砂は石英や長石など白っぽい鉱物を多く含むことから色が白く、ゆえに川は白川、砂は白川砂と呼ばれて庭園に重用されてゆくが、それは後世の話。じめじめとした湿地帯は長い年月をかけて流砂を堆積させ、砂地になっていく。先述のオオツノジカがいた2万数千年前から縄文時代にかけてのこのあたりの姿である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;弥生時代になると人が定住しはじめる。現在の京都市武道センターやみやこめっせ（京都市勧業館）のあたりに墳墓があり、岡崎グラウンドから京都市京セラ美術館にかけて白川の流路があった。住居はロームシアター京都のあたりに、水田は白川沿いの湿地にあったと考えられている。古墳時代を経て、平安時代になると、この地は風光明媚な別荘地として好まれ、六勝寺（法勝寺、尊勝寺など）を中心とする院政期の広大な宗教・政治空間が展開していった。当時この場所は「白河」と呼ばれ、京都の中枢の一端を担う副都心であったと言える。しかし、その繁栄は貴族の世とともに終わりを告げ、鎌倉時代に入ると副都心の機能が失われて、応仁の乱（1467年～）で建造物の大半がなくなっていく。戦乱と荒廃を経て、京都の都市機能が収縮するにつれ、この地域もまた急速に都市的な中枢性や重要性を持たなくなっていったのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;室町時代末期、豊臣秀吉は天下統一の後に大規模な京都改造を行い、市街地全域を御土居と呼ばれる防御壁で囲った。内と外が明確に線引きされ、これによって岡崎は「洛外」となる。そこから長らくは、近郊農耕地としての時代が続く。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;近世（江戸時代）を通じて、岡崎は京都の中心部（洛中）に隣接する農地や郊外的地域として営みを続けた。当時の京都において、人々が集まり、娯楽が消費され、信仰が集中したのは、四条河原町や上京などの既存の商業・居住地域、あるいは北野天満宮や清水寺といった伝統的な宗教・盛り場空間だった。岡崎のロケーションは、そうした主要な都市活動の場の外側にあたる。これは、同時代の江戸や大坂において、上野（東叡山寛永寺）や天王寺（四天王寺）などが、宗教的な聖地であると同時に世俗的な盛り場が交錯する都市の磁場として機能していたのとは対照的な状況であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この「何もなかった」、すなわち重要な都市機能や象徴性を欠いていたという事実は、一見するとマイナスファクターに映るかもしれない。しかし、近代都市計画という観点から見ると、それはむしろ大きな可能性と包容力を持つプラスの要素である。既存の強固な土地利用、複雑な権利関係、あるいは強い宗教的・歴史的な象徴性を持たなかったがゆえに、岡崎は、大規模なインフラ開発や、当時の人々の生活様式を一新するような新しい都市構想を、比較的容易に、かつ迅速に受け入れる余地を残していた。岡崎は、近代化に遅れをとりつつあった京都にとっての未開拓の「ヒンターランド」（後背地）であり、同時に、来たるべき近代化の実験を象徴的に引き受ける「余白」として機能する潜在力を秘めた場所だったのだ。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 section100 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_06_02.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
「大礼記念京都大博覧会　応天門ヨリ見タル東会場」昭和3（1928）年&lt;br/&gt;
（『大礼記念京都大博覧会写真帖』より。個人蔵）
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;



&lt;h2&gt;琵琶湖疏水──インフラが都市構造を変えるとき&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;岡崎が現在の姿に向けて運命を分岐させた結節点は、明治23（1890）年に完成した琵琶湖疏水の開削である。琵琶湖疏水は単なる利水施設の枠を超えた、京都の近代化の象徴として構想された。具体的な用途として計画当初に目算されたのは、舟運による輸送ルートの獲得、工業用水、水車動力、農業利用、防火用水、上水道、さらに下水道の7つだった。当時の先端技術であった水力発電は工事開始後に追加された目的であり、周辺庭園への用水供給は形式が機能にしたがった結果であるが、いずれにせよ琵琶湖疏水の建設は、そしてその徹底的かつ柔軟な水利用は、東京奠都によって衰亡の危機に直面した近代京都が都市の再生と生き残りを賭けて選択した、起死回生の都市戦略であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;疏水の完成によって、岡崎エリアは近代化が可視化される場所となった。水車がまわり、大型工場が建ち並び、運河を船が行き交う。船は蹴上の急な傾斜をインクラインによって運ばれる。その情景は当時の人々にピクチャレスクなる奇観として写り、「舟、山にのぼる」と見物に訪れる対象となったという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一方で、京都が渇望していた豊かな水資源を用いた別邸文化も、博覧会以前にスタートを切っている。長州藩の下級武士の子から内閣総理大臣にまでのぼりつめた山縣有朋が京都につくった最初の別邸となる第二無鄰菴である。完成こそ日露戦争を挟んで明治29（1896）年となるものの、着工は明治27（1894）年。第四回内国勧業博覧会開催の前年である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;長い農耕利用が横たわるクロニクルだけを見ると、応仁の乱でこの地は一度クリアランスされたかに見える。だが、時空を俯瞰すれば、平安貴族の別荘時代に刻まれた大きな区画が、この場所の基本グリッドとしてその後も残ったことが見てとれる。この大きな区画は、琵琶湖疏水建設により躍進した機能とブランド力という追い風を受けて、博覧会用地として再び強い意味を持つ。琵琶湖疏水というインフラ整備をトリガーとして、幕末の藩邸利用後、再びクリアランスされていた岡崎は、「何もない場所」から「近代化を受け入れうる多機能な場所」へと一躍、変貌を遂げたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;なお、六勝寺の残像は、区画そのものとして、また地名として、その後、数百年にわたる農地利用の間も保持され、土地の記憶を宿しつづけた。そして現在、京都市動物園の所在地は岡崎法勝寺町、京都会館は岡崎尊勝寺町、京都市美術館が岡崎円勝寺町。歴史の継承は今も続いている。&lt;/p&gt;



&lt;h2&gt;第四回内国勧業博覧会──非日常の祝祭から日常へ&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;内国勧業博覧会は明治政府が殖産興業策の一環として実施した日本の産業の商品見本市である。第一回から第三回までは東京上野で開催されたが、第四回は京都市の誘致活動により申請が政府に認められ、初めて東京を離れて明治28（1895）年に京都市岡崎で開催された。会期は4月1日から7月31日と4か月に及び、主催は日本政府（農商務省）。敷地は5万坪超、会期中の来場者数は113万6,695人にのぼった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;特筆すべきは、これが単独のイベントではなく、平安遷都千百年紀念祭と一体的に構想、実施されたものであることだ。明治27（1894）年は延暦13（794）年の平安遷都から1100年にあたる。計画は明治25（1892）年頃から具体化していたようで、同年5月19日付で京都実業協会が京都市参事会あての建議書を作成している。その後、9月23日京都市会において明治28（1895）年に紀念祭を挙行することが決議され、両者を京都で同年開催することを予定、この計画を実現するため、11月1日に協賛会が設立されている。そして遷都千百年紀念祭では、一時的な祭典に終わることなく、桓武天皇の平安遷都という業績をたたえ後世に資するものにと、建設予定だった平安神宮模造大極殿を拝殿とし、桓武天皇を祀る本殿となる社殿を建造し、神社を創建することを計画した。これにより、第四回内国勧業博覧会の開幕に先立つ同年3月に平安神宮が創建され、博覧会閉幕後、10月22日から11月15日まで平安遷都千百年紀念祭が開催された。現在も毎年10月に開催される時代祭は、この紀念祭で生まれた行事である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;岡崎の博覧会会場に足を踏み入れた来場者がまず体験したのは、当時の日本においては圧倒的に新しい、近未来的な視覚環境であったろう。会場と市街地を結んだ日本初の路面電車。琵琶湖疏水。その琵琶湖疏水の水を使った華麗な噴水と、正面にそびえる威風堂々たる正門。そしてまた、広く見通しの良い会場は、会場の空間構成自体が近代的で、封建社会が民主社会に変わったことをあらわしていた。第四回内国勧業博覧会は、近代化の成果を展示する場であると同時に、会場構造やインフラまでを含めた全体をもって、「近代都市に身を置く感覚」を来場者に体験させるための総合的な巨大装置として機能していた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;こうした華々しい祝祭と並行して、持続的な土地活用整備が継続的に進められたことについても触れておきたい。会場の主要建築物には仮設が前提のものも多かったが、すべてがそうではなかった。博覧会ごとに建築や展示内容はテーマに沿った最新のものに更新され、仮設建造物と恒久的な文化施設の建設・入れ替えが繰り返された。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第四回内国勧業博覧会と平安遷都千百年紀念祭の際に平安神宮が創建されたように、大正大典記念京都博覧会の開催を控えて商品陳列所や勧業館が完成し、その大正天皇即位の大礼に際して二条離宮（現二条城）に建てられた大饗宴場を移築してできたのが公会堂（昭和9年の室戸台風で倒壊、同じ場所に現在はロームシアター京都が建っている）で、昭和の大礼記念京都大博覧会の開会式はこの公会堂で執り行われた。平安神宮大鳥居も大礼記念京都大博覧会の年に建設されている。また、機能としても、博覧会で動物を展示した動物館がルーツとなって動物園ができ、海外輸出を見込んだ美術工芸品の展示施設が勧業館や美術館になっていき、期間限定で実施された祝祭イベントの様相は土地に定着されて、エリア性として育っていく。この「反復と更新」の積み重ねが現在の岡崎をつくってきたのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;東京の上野、京都の岡崎、大阪の天王寺。いずれの「公園」も、博物館・美術館、動物園、文化施設などを擁して不思議と似た構成と空気感をもっていることも、そう考えると、さもありなんである。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 section100 w600&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_06_03.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
「大礼記念京都大博覧会ポスター」昭和3（1928）年&lt;br/&gt;
（『大礼記念京都大博覧会写真帖』より。個人蔵）
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;



&lt;h2&gt;岡崎公園という「都市の広場」とその未来&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;現在の岡崎公園には、京都市動物園、京都府立図書館、京都国立近代美術館、京都市京セラ美術館、京都市武道センター（旧武徳殿）、ロームシアター京都、岡崎グラウンド、平安神宮といった、きわめて多様な公共施設が集積している。東山を背景とした広い空が広がる、都市の広場となっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;西欧の広場の源流がアゴラやフォラムだとすれば、日本の広場はヤシロや寺の境内を祖とするという。なるほどと思う。まさに現代において広場は、人が集まり、出会い、情報や意見や物品や金銭の交換が行われたり、民衆の集会が行われたりする場である。そこは、生活と文化と商業の営みが行われる舞台であり、コミュニケーションのチャンネルである。広く開かれ、人々の相互交流が図られる場が広場である。しかし、広場が広場として広場らしくあれるのは、その心理的・物理的役割を果たすことができる、自由と平和の元でこそである。有事にあっては、広場の広場らしさも、公園の民主性も、容易に奪われる。オオツノジカから京都マラソンに至る岡崎の歴史を思えば、こんにち岡崎公園が都市の広場として活況を呈している歴史的現在は、じつに得難く、感慨深い。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;岡崎公園の土地利用において、反復と更新は今後も続くだろう。現に、この15年ほどの間にも、小さくない更新がいくつかあった。なかでも、平成27（2015）年の神宮道の道路廃止は、岡崎公園を大きく変えた。それまで車道だった神宮道の冷泉通〜二条通間を道路としては廃止し、車を通れなくした。歩行者専用空間として公園に取り込んだのだ。この効果は絶大だった。このとき京都市は「神宮道・公園エリアが一体となった空間づくりを行います」というスローガンを掲げていたが、控えめに言って、このスローガンは十二分に達成された。岡崎公園の広がりと空間と大きな空が、連なる大型観光バスの縦列駐車に分断されていた10年前の風景がもはや遠くかすむほどに、いま、岡崎は「都市の広場」として望ましい空間となっている。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;そもそも公園という概念自体が、明治になって欧米のパブリック・パーク制度とともに初めて日本に導入された。それまで日本に公園はなかった。近世までの封建社会において、本来民主的な社会装置である公園は存在しがたいからだ。京都会館や京都市美術館の再整備にあたっては反対する強い声もあったし、軽重さまざまな問題も出来した。今後も、変更や更新が行われる度に、議論は起こるだろう。だが、「博覧会」自体が時代に呼応して意味や意義をみずから更新してきたように、岡崎公園にかぎらず、場所もまた時代の思想や志向と共に柔軟に変化していくべきである。では、どのように変化していくべきなのか。少なくとも当面のあいだ、その是非は「それは都市の広場にとってプラスかどうか？」というものさしで測ればよいとわたしは思う。開かれた場で人が集い、思い思いに交歓することのできる、平和と自由の都市文化が、そこでは花開くことができるだろう。&lt;/p&gt;



&lt;h3&gt;参考文献&lt;/h3&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;
『地図で読む　京都・岡崎年代史』2012年、京都岡崎魅力づくり推進協議会&lt;br/&gt;
&lt;a href=&quot;https://kyoto-bunkaisan.city.kyoto.lg.jp/report/tyousa01.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;『京都岡崎の文化的景観　調査報告書』2013年、京都市&lt;/a&gt;&lt;br/&gt;
『時間を旅する絵本「京都岡崎の文化的景観」１岡崎公園編』2017年、京都市
&lt;/p&gt;


&lt;!-- プロフィール --&gt;
&lt;section class=&quot;profile mt60&quot; id=&quot;_profile&quot;&gt;
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&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;PROFILE&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;プロフィール&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;		
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;javascript:window.location.href = location.pathname;&quot;&gt;&lt;span&gt;記事の冒頭に戻る&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/header&gt;
&lt;section&gt;
&lt;h4 class=&quot;secTitSty02&quot;&gt;藤井容子　|　FUJII Yoko&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;
エディティング・プロデューサー。京都岡崎魅力づくり推進協議会コラボレーター。編著書に『地図で読む 京都・岡崎年代史』（2012年）、共編著に『共読する方法の学校　インタースコア』（2015年、春秋社）ほか。京都モダン建築祭事務局長。まいまい京都事務局。松岡正剛イシス編集学校師範。
&lt;/p&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;/section&gt;
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				<item class="row1">
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&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;特集　博覧会が生み出すもの&lt;/span&gt;世界の万博とその跡地&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;文：中牧弘允（国立民族学博物館名誉教授）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div class=&quot;cat&quot;&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/feature/category/美術/&quot;&gt;美術&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 04 14&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;!-- 導入 --&gt;
&lt;div class=&quot;leadWrapper&quot;&gt;
&lt;p class=&quot;lead&quot;&gt;
大きな博覧会が終わった。広大な土地を開発し、建築物を造り、数多の人びとが集った祝祭は、終われば元通りになるわけではない。&lt;br/&gt;
太陽の塔は言わずもがな、エッフェル塔も1889年のパリ万博で建てられ、その場所のシンボルとして現在でも欠かせない存在である。京都においても、岡崎公園は第4回内国勧業博覧会の跡地に開かれたものだ。&lt;br/&gt;
物質面だけではない。技術や文化、価値などの面でも、博覧会がもたらすイノベーションは計り知れない。&lt;br/&gt;
博覧会によって、未来に何が遺るだろうか？ 過去の博覧会が遺したものを見てゆく。
&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;author&quot;&gt;メインビジュアル：大阪・関西万博の大屋根リング（筆者撮影）&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;#_profile&quot; onclick=&quot;gtag(&#039;config&#039;, &#039;UA-10908285-2&#039;, {&#039;page_path&#039;: &#039;feature/6132/1/&#039;});&quot;&gt;&lt;span&gt;プロフィールを読む&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;!-- 導入 END --&gt;



&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　2025年10月13日（月・祝）、大阪・関西万博は惜しまれつつ6ヵ月の会期を無事終了しました。現代の万博は登録博でも会期は半年、認定博では3ヵ月を上限としています。博覧会が終わればふつうパビリオンは解体され、跡地だけが残る運命にあります。年中行事の祭礼なら、翌年また活気を取り戻しますが、万博は1回限りのイベントであり、一般には後始末だけが唯一の課題となります。しかし、移転したり、再利用される建物も例外的には存在し、モニュメントなどはランドマークとして、あるいは観光名所として人気を博すこともあります。しかし、万博後は多くの場合、ハイド・パークのような公園として整備されたり、ミュージアムをはじめとする文化施設が建てられたりします。&lt;/p&gt;


&lt;h2&gt;戦前の万博跡地に誕生したミュージアム&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　19世紀の万博の建造物としてはクリスタル・パレス（1851年のロンドン万博、写真１）とエッフェル塔（1890年のパリ万博、写真２））が突出して有名です。それにくらべると認知度は高くありませんが、実は博物館や美術館が万博の跡地で存在感を発揮している例が少なくありません。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_05_01.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
写真1　1851年のロンドン万博の会場となったクリスタル・パレス（&lt;a href=&quot;https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Crystal_Palace_in_Hyde_Park_for_Grand_International_Exhibition_of_1851.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;Wikipedia&lt;/a&gt;より&lt;/a&gt;）
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w600&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_05_02.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
写真2　エッフェル塔とトロカデロ広場（&lt;a href=&quot;https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eiffel_Tower_from_Palais_de_Chaillot,_Paris_5_May_2012.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;Wikipedia&lt;/a&gt;より）&lt;br/&gt;
Nick Loyless from Dallas, TX, United States, &lt;a href=&quot;https://creativecommons.org/licenses/by/2.0&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;CC BY 2.0&lt;/a&gt;, via Wikimedia Commons
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;　恒久的な博物館としては1885年のパリ万博の産業館が最初ですが、それは1897年まで維持されました。パリのグラン・パレ（大宮殿）と（プチ・パレ（小宮殿）（いずれも1900～現在）、植民地館（1931）ならびにミュゼ・ド・ロム（人間博物館を意味し、当初はシャイヨー宮にあった）（1937）もその類です。いずれもトロカデロ広場の一角に位置し、パリの博覧会では繰り返し使われてきた会場に面しています。近年の例としては、オルセー美術館（1986）が万博会場駅を改修して美術館に衣替えしました。またミュゼ・ド・ロムからケ・ブランリー美術館（2006）が枝分かれし、植民地館がアフリカ・オセアニア美術館を経て移民史博物館（2007）となりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　イギリスに目を転じると、ロンドンのビクトリア・アルバート博物館と科学博物館は1851年のロンドン万博の収益で創設されています。同様に、アイルランド国立美術館（1853年ダブリン国際工業博覧会、1864年開館）やグラスゴー市立美術館（1888年万博）も博覧会の収益金を博物館の創設に活用しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　他方、アメリカではフィラデルフィア万博（1876）の翌年にペンシルバニア博物館（1877）が誕生し、フィラデルフィア美術館（1928）と名称を変えて世代交代しました。フィラデルフィア万博のメモリアル・ホールは後にさわる博物館（2008）として再利用され、目玉展示物だったコーリス蒸気エンジンは国立産業史博物館（2016年開館）の主要展示品となっています。また、シカゴ万博（1893）の美術品会場はシカゴ・コロンビアン博物館（1893）となり、シカゴ科学産業博物館（1933）につながりました。フィールド自然史博物館（1921年、現在地に移転）もシカゴ万博を機に創設されています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　オランダやベルギーも博覧会の開催に熱心であり、1883年のアムステルダム万博からは王立博物館やヴァン・ゴッホ美術館などが誕生しました。ベルギーでも1897年のブリュッセル万博からコンゴ博物館（1898）が生まれ、現在の王立中央アフリカ博物館につながり、1905年のリエージュ万博からはリエージュ近代美術館が誕生しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;欧米以外では、イギリスの植民地だったオーストラリアやインドの博覧会場跡地に有力な博物館ができました。日本でも、第１回内国勧業博覧会（1877）が上野公園で開催され、第2回（1881）と第3回（1890）も同地が会場となりました。上野公園のミュージアムが現在の東京国立博物館や国立科学博物館に引き継がれていることは言うまでもありません。ちなみに第４回内国勧業博覧会（1895）は遷都1100年記念として京都で開催され、第5回（1903）は大阪となりました。とくに前者の跡地は平安神宮や岡崎公園として現在につながり、京都国立近代美術館も立地するようになりました。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　なお、日本は1940年に紀元2600年記念日本万国博覧会を計画していましたが、日中戦争等の情勢悪化にかんがみ「幻の万博」となってしまいました。予定地は埋立地の晴海や豊洲で、その出入口となる勝鬨橋だけが現在にその姿をとどめています。&lt;/p&gt;



&lt;h2&gt;戦後の万博とその跡地利用&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　第二次世界大戦後、はじめての万博はベルギーのブリュッセルで1958年にひらかれました。建物の多くは1935年のブリュッセル万博のものを再利用しており、現在でも見本市や展覧会などに活用されています。また、高さ102mのシンボルタワー「アトミウム」が残されており、観光名所として機能しています。この万博ではベルギー領コンゴ等の植民地展示がなされましたが、1960年以降、アフリカなどの植民地が次々に独立をはたし、19世紀以来の植民地の物産を誇示する国威発揚型の展示は影をひそめるようになりました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その後、モントリオール万博（1967）をはさんで1970年の日本万国博覧会（大阪万博）となります。一般来場者数が6420万人をこえる、大盛況の大阪万博でしたが、ほとんどのパビリオンは姿を消し、その跡地は万博記念公園として整備されました。ただし、日本庭園はそのまま残され、当初解体予定だった「太陽の塔」も存続し、お祭り広場の大天井の一部も保存されました。万博美術館は国立国際美術館（2004年、中之島に新築・移転）となり、日本民藝館も大阪日本民芸館として活動を再開しました。また、新たに国立民族学博物館が1977年に開館し、太陽の塔の地下空間を埋めた民族資料が移管されました（写真３）。さらにシアターとしてつくられた鉄鋼館が2010年、EXPO’70パビリオンとしてよみがえりました。他方、遊戯施設のエキスポランドも営業を続けましたが、ジェットコースターの事故のため2009年に閉鎖を余儀なくされました。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_05_03.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
写真３　太陽の塔と国立民族学博物館（筆者撮影）
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;　大阪万博の後、日本では沖縄国際海洋博覧会（1975～76）、国際科学技術博覧会（つくば科学万博、1985）、国際花と緑の博覧会（大阪花博、1990）、日本国際博覧会（愛・地球博、2005）が開催されました。跡地はいずれも公園として整備され、パビリオンが多少残るといった利用のされ方をしています。沖縄海洋博の跡地は海洋博公園と名称を変え、沖縄美ら海水族館や海洋文化館が人気を集めています。つくば万博の場合は、科学万博記念公園として再生し、高さ10mの「科学の門」がモニュメントとして保存されています。大阪花博は「咲くやこの花館」を擁する花博記念公園鶴見緑地に変貌しました。愛・地球博のほうは愛・地球博記念公園（モリコロパーク）として親しまれています。そこには「サツキとメイの家」や「もののけの里」「魔女の谷」など、ジプリパークの5つのエリアがあり、こどもたちの人気の的となっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　海外に目を向けると、隣国の韓国では大田国際博覧会（1993）と麗水国際博覧会（2012）の2回の万博がひらかれ、前者はエキスポ科学公園、後者はエキスポ海洋公園として整備され、記念のモニュメントや建物が残されています。おなじ隣国の中国では2010年の上海万国博覧会（上海万博）が7300万人以上の来場者を迎え、大阪万博の記録を塗り替えました。跡地は上海万博公園となり、地下鉄の世博会駅が新設されました。万博のシンボル的な存在だった63mの中国館は中華芸術宮に名称を変更し、2012年10月１日の国慶節の日に開館しました（写真４）。主要な展示品は上海美術館から引き継いでいます。また、万博博物館（世博会博物館）が新たに建てられ、2017年５月にオープンしました。モダンなデザインの６階建ての博物館であり、1851年にはじまる国際博覧会の歴史を時代ごとにたどる展示となっています（写真５）。その最後を飾るのは、中国館で絶大な威光を放った清明上河図の巨大スクリーン映像など、上海万博の遺品の数々です。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_05_04.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
写真４　中華芸術宮（&lt;a href=&quot;https://commons.wikimedia.org/wiki/File:China_Art_Museum,_Shanghai.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;Wikipedia&lt;/a&gt;より）&lt;br/&gt;
DavidXiaoDaShan, &lt;a href=&quot;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;CC BY-SA 3.0&lt;/a&gt;, via Wikimedia Commons
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_05_05.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
写真５　上海の万博博物館（筆者撮影）
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;　欧米では1980年代まではアメリカやカナダが何度か主催国をつとめましたが、90年代以降はスペインやポルトガル、あるいはドイツやイタリアが開催国となりました。スペインはコロンブスの新大陸発見500年を記念してセビリア万国博覧会（1992）を開催し、カルトゥーハ発見公園が開園しました。ポルトガルのリスボン国際博覧会（1998）は「海洋　未来への遺産」をテーマに掲げ、諸国家公園とともにヴァスコ・ダ・ガマ・ショッピングモールを後世に残しました。万博の目的を科学技術の進歩ではなく人類の課題解決へと移行させた直後のハノーバー万国博覧会（2000）は皮肉にも大赤字に見舞われ、いくつかの国家館は売物件となり、負債を抱えることになりました。とはいえ、次の愛・地球博（2005）からはそのような事態は避けられています。「食」をテーマにしたイタリアのミラノ万国博覧会（2015）の跡地は再開発され、当初サイエンス・テクノロジー・パークとしていたものがミラノ・イノベーション・ディストリクトと命名され、研究拠点、学術機関、ならびに病院等が設立されています。科学技術に特化した「公園」からイノベーションをめざす生活圏としての「街区」に変更されたことが画期的です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「未来のエネルギー」をテーマにしたアスタナ国際博覧会（2017）やオポチュニティ（機会）、モビリティ（移動）、サステナビリティ（持続可能性）という3つのサブテーマを掲げたドバイ国際博覧会（2021～22）でも都市開発の一環として跡地利用が推進されています。前者は「アスタナ・ハブ」として知られ、国際金融センターやIT大学が設立され、万博のメインパビリオンだった「未来のエネルギー博物館」ではひきつづき展示がおこなわれています。後者の跡地はエキスポ・シティ・ドバイに変貌し、持続可能性、イノベーション、コミュニティを重視した都市設計が進められています。また 既存施設の約8割が展示場や住宅、あるいはオフィスなどに再利用されているのも特徴のひとつです。さらに国内外の企業や投資家にとっても魅力的なビジネスハブとなることが期待され、国際機関の誘致も進んでおり、国際的なビジネス会議や学術イベントの開催地としても活用されています。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　2030年に開催を予定しているリヤド国際博覧会では、「変化の時代：共に先見性のある明日へ」をメーンテーマとし、会期終了後、跡地を近代的なダウンタウンとするべく、2030年までに完成予定の未来都市プロジェクトをすでに構想しています。空港の近くに立地し、利便性も加味した都市づくりをめざしているのです。&lt;/p&gt;



&lt;h2&gt;大阪・関西万博の跡地利用&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　2025年日本国際博覧会（大阪・関西万博）の跡地利用についてはまだ正式に決まっていないことが多くあります。大阪湾の浚渫土や建設残土、ならびに一般廃棄物等で埋め立てられた人工島の夢洲は大阪市の所有であり、万博会場に隣接する東側にはコンテナターミナルがすでに稼働し、北側ではIRの建設工事が進んでいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　大阪市は、府、市、経済界で策定した「夢洲まちづくり構想」を基本に、夢洲の国際観光拠点形成に向けた基本方針をとりまとめるため、検討会の議論やパブリック・コメントの結果を踏まえて、2019年12月18日に夢洲まちづくり基本方針を策定しました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　大阪府・大阪市は夢洲第2期区域（万博跡地）のまちづくり方針として、2025年4月に「夢洲第2期区域マスタープランVer.1.0」を策定しました。そのコンセプトは「Smart Resort City（夢と創造に出会える未来都市）」であり、「リゾート」と「シティ」を融合させた空間を形成して、「スマート」な取り組みを通じてまち全体の連携を高度化し、国際観光拠点としての機能の強化をはかることにあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　2025年6月には府・市から大屋根リングの北東側約200mを原型に近い形で保存する方針が出されました（写真６）。また、関西経済界からはサーキット建設などに疑問が投げかけられました。そのほか大屋根リングを回廊として残す案、「静けさの森」を公園化する案や大阪・関西万博を記念する博物館の新設など、さまざまな構想が飛び交いました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　今後、府・市はマスタープランVer.2.0を策定し、解体がすべて完了する2026年の春には開発事業者の募集を開始する予定となっています。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 section100 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_05_06.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
写真６　大阪・関西万博の大屋根リング（筆者撮影）
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;



&lt;h3&gt;参考文献&lt;/h3&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;
中牧弘允 2020「万国博覧会の遺産としての博物館――夢の後始末をめぐって」佐野真由子編『万博学――万国博覧会という、世界を把握する方法』思文閣出版、479-495。&lt;br/&gt;
&lt;a href=&quot;https://www.city.suita.osaka.jp/museum/about/1031051/1031053/1031059.html&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;中牧弘允2018「上海の万博博物館（世博会博物館）を訪ねて」&lt;/a&gt;
&lt;/p&gt;


&lt;!-- プロフィール --&gt;
&lt;section class=&quot;profile mt60&quot; id=&quot;_profile&quot;&gt;
&lt;header&gt;
&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;PROFILE&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;プロフィール&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;		
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;javascript:window.location.href = location.pathname;&quot;&gt;&lt;span&gt;記事の冒頭に戻る&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/header&gt;
&lt;section&gt;
&lt;h4 class=&quot;secTitSty02&quot;&gt;中牧弘允　|　NAKAMAKI Hirochika&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;
国立民族学博物館名誉教授、吹田市立博物館特別館長。専門はブラジル研究、経営人類学、宗教人類学。著書に『ひろちか先生に学ぶこよみの学校Ⅰ〜Ⅴ』（つくばね舎、2015〜2025年）、『会社のカミ・ホトケ――経営と宗教の人類学』（講談社、2006年）、編著に『梅棹忠夫の「日本人の宗教」』（梅棹忠夫 (著)、淡交社、2020年）、『世界の暦文化事典』（丸善出版、2017年）など。
&lt;/p&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;!-- プロフィール END --&gt;


&lt;!-- ソーシャルリンク --&gt;
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&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/feature/category/美術/&quot;&gt;美術&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
&lt;span class=&quot;line&quot;&gt;&lt;/span&gt;
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&lt;/nav&gt;
&lt;/div&gt;
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			</item>
				<item class="row1">
				<data>&lt;figure class=&quot;mv&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.ameet.jp/wordpress/wp-content/uploads/202601_04_00.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/figure&gt;
&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;特集　博覧会が生み出すもの&lt;/span&gt;万博の記憶を伝える仏教的造形物&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;文：君島彩子（和光大学准教授）&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div class=&quot;cat&quot;&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/feature/category/美術/&quot;&gt;美術&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 04 14&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;!-- 導入 --&gt;
&lt;div class=&quot;leadWrapper&quot;&gt;
&lt;p class=&quot;lead&quot;&gt;
大きな博覧会が終わった。広大な土地を開発し、建築物を造り、数多の人びとが集った祝祭は、終われば元通りになるわけではない。&lt;br/&gt;
太陽の塔は言わずもがな、エッフェル塔も1889年のパリ万博で建てられ、その場所のシンボルとして現在でも欠かせない存在である。京都においても、岡崎公園は第4回内国勧業博覧会の跡地に開かれたものだ。&lt;br/&gt;
物質面だけではない。技術や文化、価値などの面でも、博覧会がもたらすイノベーションは計り知れない。&lt;br/&gt;
博覧会によって、未来に何が遺るだろうか？ 過去の博覧会が遺したものを見てゆく。
&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;author&quot;&gt;メインビジュアル：ブリュッセルに移設された五重塔（&lt;a href=&quot;https://commons.wikimedia.org/wiki/File:La_tour_japonaise_%C3%A0_Laeken.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;Wikipedia&lt;/a&gt;より）&lt;br/&gt;
Moyaertsd, &lt;a href=&quot;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;CC BY-SA 4.0&lt;/a&gt;, via Wikimedia Commons&lt;/p&gt;
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;#_profile&quot; onclick=&quot;gtag(&#039;config&#039;, &#039;UA-10908285-2&#039;, {&#039;page_path&#039;: &#039;feature/6126/1/&#039;});&quot;&gt;&lt;span&gt;プロフィールを読む&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/div&gt;
&lt;!-- 導入 END --&gt;



&lt;h2&gt;万博の跡地はどうなるのか&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　2025年の大阪・関西万博はすでに幕を閉じているが、イメージキャラクターであるミャクミャクの強烈な印象もあり、実際に万博会場を訪れなかった人々を含め、2025年を代表するイベントとして記憶に残るものになったと言えるだろう。実際に会場となった夢洲に足を運んだ人々にとっては、大屋根リングや数多くのパビリオンの風景、そこでの展示や体験、さらには予約の取りにくさや長蛇の列までも含め、忘れがたい記憶として残ったのではないだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　万博が開催された夢洲は、今後、万博の記憶を後世に伝える場として整備が進められていくと考えられる。これまで日本で開催されてきた万博の会場跡地を振り返ると、その多くが公園として再編され、市民に開かれた空間となってきた。1970年の大阪万博の跡地は、太陽の塔で知られる万博記念公園として整備されている。1975年の沖縄国際海洋博覧会の跡地は海洋博公園となり、美ら海水族館には現在も多くの観光客が訪れている。1985年の、つくば科学万博の跡地には科学万博記念公園が整備され、1990年の国際花と緑の博覧会の跡地は花博記念公園鶴見緑地として、2005年の愛・地球博の跡地は通称モリコロパークとして、いずれも現在まで広く利用されている。万博という一時的な祝祭の場は、会期終了後、公園という日常空間へと姿を変えながら、その記憶を伝え続けてきたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　自分自身がはじめて訪れた万博の跡地の公園は、大阪でも愛知でもなく、フランス・パリのシャン・ド・マルス公園であった。とはいえ、パリの定番観光地であるエッフェル塔をちらりと見て通り過ぎただけに過ぎない。フランス革命100周年を記念して開催された1889年のパリ万博は、産業革命以降に発展した鉄鋼技術や機械文明を誇示する場であり、エッフェル塔は従来の石造建築を超える高さを実現することで、科学技術と進歩の象徴となった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　次に訪れた万博の跡地は、ベルギー・ブリュッセルのアトミウム公園である。1958年のブリュッセル万博の際に建てられたアトミウムは、高さ約103メートルを誇り、鉄の結晶構造を約1650億倍に拡大した造形である。この万博は、第二次世界大戦後に初めて開催された本格的な万博であり、戦争の記憶が色濃く残るなか、冷戦構造の只中で行われた。核技術や科学の利用は、当時、脅威であると同時に未来への希望としても受け止められており、その両義性こそが万博の重要なテーマであった。巨大なアトミウムは、そうした時代の空気を現在に伝える象徴的存在である。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　今日では、エッフェル塔もアトミウムも、万博の記念物であると同時に、都市そのものを象徴する存在となっている。このようなモニュメンタルな建造物が残ることで、万博の記憶は跡地に強く刻み込まれてきた。おそらく夢洲も、2025年の大阪・関西万博の記憶を伝える公園として整備されていくだろう。しかし、最も万博を象徴する存在であった大屋根リングは、そのままの形で全面的に残されることはなかった。夢洲の地で2025年の記憶を伝えるのは、いかなるモニュメントなのか。今後もその行方を見守っていきたい。&lt;/p&gt;



&lt;h2&gt;ブリュッセルで五重塔に出会う&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　私自身、2025年の大阪・関西万博が実際に訪れたはじめての万博である。しかし、万博に関する調査や研究には、すでに13年ほど携わってきた。そのきっかけとなったのが、先に述べたブリュッセル万博の跡地での経験であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ブリュッセルのアトミウム周辺を散策していた際、突如として現れた謎めいた日本風の五重塔に目を奪われた。案内板を読むと、この五重塔はパリ万博に関係する建物であると説明されており、当初は強い違和感を覚えた。なぜパリ万博の建築がブリュッセルにあるのか。調べてみると、この五重塔は1900年のパリ万博において、フランス人建築家アレクサンドル・マルセルが設計した「世界旅行パノラマ」と呼ばれる展示の一部であったことが分かった。世界旅行パノラマとは、東南アジアの遺跡やモスク風建築など、世界各地の建築様式を模した建物を集め、来場者に疑似的な世界一周体験を与える展示空間であり、その中に日本風の五重塔も含まれていたのである。万博終了後、この五重塔を気に入ったベルギー国王レオポルド2世の意向によってブリュッセルへ移築され、現在は極東博物館の建物の一つとして現存している。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_04_01.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
ブリュッセルに移設された五重塔（&lt;a href=&quot;https://commons.wikimedia.org/wiki/File:La_tour_japonaise_%C3%A0_Laeken.jpg&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;Wikipedia&lt;/a&gt;より）&lt;br/&gt;
Moyaertsd, &lt;a href=&quot;https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;CC BY-SA 4.0&lt;/a&gt;, via Wikimedia Commons
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;　マルセルの設計による五重塔は、日本建築の忠実な復元ではなく、細部には不自然な点も少なくない。しかし、ヨーロッパの公園の中に立つその姿は明らかに寺院建築を想起させる外観を備えており、同時にそれが信仰の場ではなく、異文化を視覚的に理解させるための装置であったことも明白である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　同じ頃、イギリス・ロンドンのキュー・ガーデンで目にした仏教風の門も、強く印象に残っている。この門は、1910年にロンドンで開催された日英博覧会において、京都館の正門として建てられたもので、博覧会終了後に解体され、キュー・ガーデンへ移築された。西本願寺の唐門（使門）を模した意匠をもち、仏教寺院を思わせる外観を備えているが、これもまた信仰とは直接関係のない展示建築である。&lt;br/&gt;
アメリカの公園に残る仏教風建築の中にも、万博と深く関係するものがいくつか存在する。1904年のセントルイス万博では、日本の建築を模した「日本村」が設けられ、金閣寺を模した建物を利用した喫茶店なども作られた。また日本からの民間展示の中にも実物の寺院建築である仁王門（清音寺山門）が含まれており、博覧会終了後にフィラデルフィアのフェアモント・パークへ移設され市民に親しまれた。残念ながら仁王門は火災によって失われ、現存していない。一方、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パーク内にある日本庭園の五重塔は、1915年のパナマ・太平洋万博において展示のために設けられた建築に由来するもので、当初は商品展示の一部として用いられるなど、日本を象徴する視覚的装置として機能していた。博覧会終了後に現在の場所へ移設され、日本庭園を構成する要素として現在もその姿を見ることができる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これらの仏教的建物はいずれも、現在は日本庭園の景観を構成する要素として設置されているが、もとは万博という国際的な展示空間で用いられた建築である。当初の目的も現在の役割も、日本らしさを象徴的に示す点にあり、そこに本来の信仰の文脈は存在しない。さらに言えば、1900年のパリ万博に出品された五重塔は、マルセルによる設計であり、明確なオリエンタリズムの視線に基づいて構成されていたのに対し、それ以降の事例の多くは日本側が主体となって出品したものである。その結果、オリエンタリズム的な眼差しを内在化しつつも、信仰の文脈から切り離されたかたちで仏教建築が用いられるようになったと言える。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　いずれにせよ、ブリュッセル旅行で偶然出会ったこの五重塔は、その後、万博という場において仏教表象がいかに用いられてきたのかを調べ始める、大きなきっかけを与えてくれた。&lt;/p&gt;



&lt;h2&gt;平和を祈る仏教的な造形物&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　万博と関係する仏教的な造形物に関心を抱き、帰国後、日本での調査を始めた。まず向かったのは、「太陽の塔」が立つ大阪の万博記念公園である。中央にそびえる高さ約70メートルの太陽の塔は、合理性や進歩史観に回収されない原初的な生命力や宗教的感覚を、強烈な造形と内部展示によって表現した存在である。鉄と科学技術の進歩を象徴する「エッフェル塔」や「アトミウム」とは対照的に、万博の理念そのものを内側から問い直すモニュメントであり、今日では大阪という都市を象徴する唯一無二の存在となっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もちろん初めて目にした太陽の塔には強い感動を覚えたが、私の関心はむしろ万博会場に残された仏教的建築や造形物にあった。万博記念公園の中には、そうした仏教的要素をもつ建物が今も残されている。かつて1970年の大阪万博で鉄鋼館として使用された建物を活用した、万博の展示施設EXPO’70パビリオンの前には、寺院風の鐘楼が建ち、「国連平和の鐘」と呼ばれる梵鐘が吊るされている。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_04_02.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
万博記念公園内に移設された国連平和の鐘（筆者撮影）
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;　この平和の鐘は、日本国連協会理事であり宇和島市長も務めた中川千代治を中心に制作されたものである。中川はアジア太平洋戦争のビルマ戦線で九死に一生を得た体験と、現地のパゴダで耳にした鎮魂の鐘の音をきっかけに、生涯にわたって平和を訴える決意を固めた。戦後、復員した中川は、金属供出によって失われた菩提寺の梵鐘に心を痛め、65か国の代表から集めたコインやローマ教皇の金貨などを溶かして新たな梵鐘を鋳造し、平和への祈りを具体的な形にした。この鐘は1954年に国連本部へ寄贈され、1970年の大阪万博では国連館に里帰り展示された。会期中、多くの来場者や各国の要人が自由に鐘を鳴らし、万博における国連と平和の理念を強く印象づける存在となった。万博終了後、鐘は再び国連本部へ戻され、代わりに設置されていた姉妹鐘が万博記念公園に残され、現在も鐘楼に吊るされている。なお、この国連平和の鐘のミニチュアは、2025年の大阪・関西万博でも展示され、来場者が実際に鳴らすことができたため、記憶に残っている人もいるだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　1970年という、戦争の記憶がまだ生々しく残る時代においては、戦争で亡くなった人々を慰霊する行為そのものが、平和を希求する重要な実践と考えられていた。日本では死者供養の儀礼を担ってきた仏教がその役割を引き受け、仏教的造形は戦争死者の慰霊を通じて平和へとつながる象徴的存在として、万博という場に位置づけられたのである。その具体例が、西モノレール駅近くに全日本仏教会によって設けられた休憩所・法輪閣と、その庭に建立された平和観音像であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　万博会場に建立された高さ約3メートルの平和観音像は、天台真盛宗の僧侶・山崎良順を中心に設立された活動によるものである。山崎はアジア太平洋戦争で中国大陸に従軍し、僧侶でありながら殺生に関わらざるを得なかった体験に深い苦悩を抱いた。終戦直前、観音廟で日中双方の戦没者を弔い経を捧げたことを契機に、平和と親善を生涯の志とするようになった。戦後、山崎は平和観音像を中国や激戦地、さらには仏教国やベトナム戦争に反対する意味もこめてアメリカにも贈り、宗派を超えた平和の象徴として広めていった。1968年、大阪万博の開催を知った山崎は、その理念が仏教精神に通じると考え、来場者に平和を訴えるため出展を決意する。交渉の末、法輪閣の庭への設置が認められ、彫刻家・矢崎虎夫の原型による観音像は、1970年の万博開幕直前に開眼法要を経て会場に据えられた。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　アジアで初めて開催された万博である1970年の大阪万博では、それまで日本らしさを示すオリエンタルな展示物にすぎなかった仏教的造形に、新たに信仰的な意味が与えられた。会場内のアジア各国パビリオンに展示された仏像の前には多くの賽銭が置かれ、来場者がそれらを単なる展示物ではなく、祈りの対象として受け止めていたことは明らかである。そして平和の鐘や平和観音像の事例が示すように、そこで表現された祈りは、特定の仏教教義に基づくものではなく、宗派や国境を超えた、より普遍的な世界平和への願いであった。&lt;/p&gt;



&lt;h2&gt;記念物として残る仏教関係の遺物&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;　万博の会場に平和観音像が建立されていたことを知ったことから、私は平和を象徴する観音像に強い関心を抱くようになった。その後、博士課程へ進学し、平和観音像を主題とする博士論文を執筆し、さらにその成果を『観音像とは何か――平和モニュメントの近現代』として出版するに至った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　万博会場に建立された平和観音像は、万博終了後、長野県諏訪市に移築されたラオス館パビリオンを本堂とする昭和寺に安置されている。ラオス館に限らず、アジア系パビリオンの部材が寺院建築に活用された事例は少なくない。ビルマ館は大分県別府市の瑞光寺に移され、本堂の荘厳にパビリオン部材が用いられたほか、展示品であった工芸品も抹香入れなどとして再利用されている。また、ネパール館の寺院風の飾り窓は、万博後に日ネ友好の証として奈良の元興寺に寄贈され、現在では寺院建築の一部として周囲の景観に溶け込んでいる。&lt;/p&gt;

&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202601_04_03.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
平和観音像が安置されている昭和寺。長野県諏訪市（筆者撮影）
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;

&lt;p&gt;　また、全日本仏教会が設置した法輪閣は、当初から万博終了後の活用を見据えて建てられた寺院風建築であり、万博終了後は大阪の四天王寺に移設された。現在は庚申堂の堂守として用いられ、縁日の日には多くの参拝者で賑わっている。さらに、万博会場でひときわ目立っていた東大寺七重塔を再現した古河パビリオンは、万博終了後、七重塔の双輪部分のみが東大寺境内に移設された。興味深い事例としては、仏教とは直接関係のなかったカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州館の木材が、念法眞教本山金剛寺の「樅の木廊下」として再利用され、信仰空間へと転化している点が挙げられる。万博に関わる記念物の保存先として、仏教寺院が選ばれてきたことが分かる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　仏教寺院以外の場所に仏教的造形物が移設された例も存在する。カンボジア館は神戸市北区広陵町の自治会館として利用されており、その前庭には仏像や神像のレプリカが並んでいる。中には観音像のレプリカもあり、案内板では観音の慈悲が強調されている。また、韓国館に展示されていた石窟庵仏像のレプリカ三体は、在日韓国人学校・白頭学院に寄贈され、約五十年にわたり保存されてきた。これらは寺院ではない場所に置かれているが、仏教に関わる造形物であるがゆえに、粗末に扱われることなく残されてきた側面もあるだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　科学技術の祭典というイメージの強い万博の歴史において、アジアで開催された1970年の大阪万博は、仏教的造形物が単なる見世物ではなく、信仰的な意味を帯びた存在として受け止められた点で特異な位置を占めている。そのため、こうした造形物は会期終了後も安易に廃棄されることなく、各地で再利用され、新たな意味を与えられてきた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　1970年の大阪万博以降、仏教的展示は減少傾向にあるものの、仏像レプリカが会期終了後に寺院へ寄贈される事例は続いている。1985年のつくば科学万博のスリランカ館に展示された巨大な涅槃像のレプリカは、万博終了後に福島県会津若松市の法國寺会津別院境内へ移設された。また、2005年の愛・地球博に出展されたパキスタン館の釈迦苦行像のレプリカは、博覧会終了後に神奈川県鎌倉市の建長寺法堂に安置されている。いずれも当初は文化・歴史紹介を目的としたレプリカであったが、移設後には信仰的な意味を獲得したと言える。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このように、万博における仏教関係の展示物は、会期終了後も廃棄されることなく、寺院や公共空間に受け継がれ、新たな意味を与えられてきた。とりわけ仏教寺院は、万博遺産を受け止める場として重要な役割を果たし、展示物が文化財から信仰対象へと転化する契機となってきた。&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;section100&quot;&gt;　ブリュッセルでの出会いから始まった「万博と仏教」という研究テーマは、長年にわたって私の関心を支えてきた。2025年の大阪・関西万博では、アイルランド館の象徴的展示であった「Magnus RINN（マグナス・リン）」が、会期終了後に京都の知恩院へ移設されている。今後も万博に出展された展示物やパビリオンの部材が寺院空間に受け入れられていく可能性は十分にあり、このテーマについて引き続き研究を続けていきたいと考えている。&lt;/p&gt;



&lt;!-- プロフィール --&gt;
&lt;section class=&quot;profile mt60&quot; id=&quot;_profile&quot;&gt;
&lt;header&gt;
&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;PROFILE&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;プロフィール&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;		
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&lt;/header&gt;
&lt;section&gt;
&lt;h4 class=&quot;secTitSty02&quot;&gt;君島彩子　|　KIMISHIMA Ayako&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;
和光大学 表現学部 芸術学科 准教授。専門は宗教学、宗教美術史。著書に『観音像とは何か――平和モニュメントの近・現代』（青弓社、2021年）、共著に『読んで観て聴く――近代日本の仏教文化』（法蔵館、2024年）、『万博学――万国博覧会という、世界を把握する方法』(思文閣出版、2020年)など。
&lt;/p&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;/section&gt;
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			</item>
				<item class="row1">
				<data>&lt;figure class=&quot;mv&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://www.ameet.jp/wordpress/wp-content/uploads/202602_01_00.jpg&quot; alt=&quot;&quot;/&gt;&lt;/figure&gt;
&lt;div id=&quot;contents&quot;&gt;&lt;h1&gt;現実の解像度を知らしめる感覚&lt;span class=&quot;mt&quot;&gt;インタビュー：古舘健&lt;/span&gt;&lt;/h1&gt;&lt;div class=&quot;cat&quot;&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/column/category/インタビュー・対談/&quot;&gt;インタビュー・対談&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/column/category/音楽/&quot;&gt;音楽&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;date&quot;&gt;&lt;span&gt;2026 02 20&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class=&quot;leadWrapper&quot;&gt;

&lt;p class=&quot;lead&quot;&gt;
音楽家・日野浩志郎の新作「Chronograffiti」大阪公演直前の2025年7月、本メディアにて日野のインタビューを決行した。安藤巴・谷口かんな・前田剛史という、スタイルや文脈も異なる3名の打楽器奏者によるリズムアンサンブルと、ビジュアルエフェクトを担当する古舘健からなる本作。さまざまな方向性のプロジェクトに携わる日野にとっても、Chronograffitiの制作プロセスは特異なものだとわかる内容だった（インタビュー：日野浩志郎「&lt;a href=&quot;https://www.ameet.jp/column/5963/&quot;&gt;『Chronograffiti』が照射するもの&lt;/a&gt;」記事参照のこと）。&lt;br/&gt;
&lt;br/&gt;
第二弾となるインタビューでは、2026年2月21日（土）に山口情報芸術センター［YCAM］で開催される再演を前に、制作の起点となったアイデアはどのように生まれ、日野とのコラボレーションはどう育っていったのか、ビジュアル面のディレクションを担った古舘健の視点に触れる。取材場所は、前回と同じく日野のスタジオがある北加賀屋・音ビルにて。
&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;author&quot;&gt;
インタビュアー：日野浩志郎・伴朱音・佐藤文音・永江大&lt;br/&gt;
文：永江大&lt;br/&gt;
バナー写真：井上嘉和
&lt;/p&gt;

&lt;/div&gt;


&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202602_01_01.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
photo: 井上嘉和
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;




&lt;h2&gt;起点となったひとつのアイデア&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——まずは、このプロジェクトがスタートしたきっかけについて教えてください。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;： 始まりは2025年2月ですね。兵庫にある城崎国際アートセンターで別作品のクリエーション中に、「こんなアイデアがある」と日野くんが話してくれたのがはじまりです。そのクリエーションにも参加していた、打楽器奏者の前田剛史が太鼓を叩くときの腕の軌道が美しくて、それ自体を作品にできないかというものでした。その話の前後で、まるで翼のように見えるね、みたいな話もしたりしていて。すぐに「これ使えるかも？」とピンときたのが、僕が開発した可変式ストロボのアイデアです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——それはどんなものでしたか？&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：市販のストロボだと点滅する周期が限定的で、特に早い点滅のだと急に半分の周期になっちゃったりして融通が効かないし、点灯時間を最短に設定してもそれでも長すぎる。僕が制作したのは、点滅回数とその点灯時間を連続的に自由に可変したり重ね合わせたりできるものです。一般的にはストロボの点滅周期は最速でも1秒間に30回とかなんですが、これの場合は、1秒間に1000回でも点滅させられるし、点灯している時間も、1マイクロ秒(1/1,000,000秒)とかにも設定できる。最初は別の作品のためにつくりはじめたもので、そんな早さや精度は要求されてなかったんですが、技術的には可能なものだったので、やってみたらできたんですよね。ちょっと見たことのないような感じになったので、何かで使いたいな、と思っていたんです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ストロボが効果的なのって、対象の動きに繰り返しがあるときなんですよね。ビートを刻むというのは、まさに繰り返しの動きだから、これとストロボは相性がいいはずだと思っていました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——ストロボのアイデアが、この作品の核になっていったと。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：そうですね。日野くんから話を最初に聞いたときにすぐに思いついて、それからはほとんどぶれてない。最初の写真撮影を兼ねたリハーサルで、メトロノームを使って一定のリズムを刻む演奏に対して、少しBPMをずらしてストロボを点滅させる実験をしたんです。そこで、音はパンパンパンと聴こえているのに、動きがスローモーションに見える現象が確認できて、「これだ！」と確信を持ちました。&lt;/p&gt;


&lt;figure class=&quot;figSty01 w600&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202602_01_02.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
photo: 井上嘉和
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;




&lt;h2&gt;コンセプトを研ぎ澄ませていくプロセス&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——2025年6月のドイツでの初演に向けて、どんな準備を？&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：ドイツ公演に向けては、ひとまず、思いついたネタをすべて一度試してみました。ストロボだけでなく、LEDのバーを並べたり、ビデオウォールで使うようなLEDのパネルを並べて点滅させてみたり。音楽フェスのなかの1プログラムということもあって、少しエンタメ性を意識した部分がありましたね。用意したデバイス類を制御するシステムを組むのに結構いっぱいいっぱいだったので、本番は、準備したネタをその場で即興的に操作していく感じになりました。大変だったのは転換です。僕らの公演の前後にも別の演目があったりしていて、設営とサウンドチェックに与えられた時間が非常に限られていた。その場にいる知り合い全員に手伝ってもらってギリギリ。設営中は、僕の脳がブーストされて、すべてがスローモーションで感じられるような状態でした（笑）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——その1か月後には、大阪・北加賀屋のクリエイティブセンター大阪で公演が決まっていました。&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：ドイツ公演後、日野くんとも話し合って曲を1曲変更し、演出面でとっ散らかっていた部分をよりシャープに絞り込む方向性で進めていました。大阪公演の会場であるクリエイティブセンター大阪のブラックチェンバーは、観客が集中して観られるシアター形式の空間だったので、ドイツ公演のフェス仕様の空間とは異なり、研ぎ澄ませば研ぎ澄ますだけ良くなるというビジョンが見えてきたんです。そこで、ばっさりと他のデバイスは切り捨てて、演奏者とストロボの光が生み出す現象のみに、より集中できる演出・環境を考えていきました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——演出として、何を一番重視しましたか?&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：この作品の核になるのは、やはり「動きを見せる」こと。訓練された人じゃないと演奏できないような曲だし、そして訓練された動きは美しいんですよね。そこに「美しい動き」がすでにあるわけなので、それをいかに浮かび上がらせるか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;技術的な側面からは、個人的には、コンピュータのなかで完結する映像や表現にはあまり興味がなくなってきていて。そのデジタルのアイデアだったり質感だったりを、現実世界にどう持ってくるか、というところに関心があります。この作品でも、映像それ自体は使っていないにも関わらず、すごく映像的な印象を受けると思うんです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この作品は、目の限界、現実の解像度を拡張させていくような感覚をもたらすことを目指しています。4K、8Kと映像が高解像度化していく時代にあって、あえて映像を使わずに、生の目だけでどこまで見ることができるのか。ストロボの点滅によって、スティックが打楽器の打面を叩くその瞬間がまるでスローモーションのように微細に見えてくる。生の目で見ているのにも関わらず、非現実的な、まるで映像のような瞬間をつくり出す。そういう視点では、この作品は「メディアアート」であるとも言えると思うし、今回YCAMで上演する理由にもなっていると思っています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;いい作品は、できあがってくると、自分のエゴから離れていく。作品そのものが成りたがっている姿を自ら求めてくるというか。それに対して、つくり手は、奉仕するような立場に変わっていくんですね。太鼓の音に集中していた観客の意識が、だんだんと夢心地になっていき、見ているものが現実なのか、錯覚なのかわからなくなるような状態へと“浮かせて”いく。デヴィッド・リンチの映画のような、映像のなかで起きていることが、現実へと干渉していき、自分自身が映画のなかの登場人物と同じように翻弄されていく。現実の中に非現実を立ち上げていく。そんな体験が、この作品ではできているのではと思います。&lt;/p&gt;


&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202602_01_03.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
photo: 井上嘉和
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;




&lt;h2&gt;表現の源泉としての「浮遊感」&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;日野&lt;/strong&gt;：せっかくの機会なので、古舘さんにぜひ聞きたいのが、ソロで演奏する時の感覚についてです。演奏中に「これはいま気持ちいいな」という瞬間が、僕の場合、オーディエンスとして聴く側と演奏する側で少し離れる時があるんです。古舘さんは、どういう感覚でやっているんだろうなと。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：僕はライブをする時、演奏者というより「オペレーター」としてそこにいる感覚があります。自分で楽器を弾く日野くんとは違い、僕は音を聴きながらコンピュータでパラメーターをじっくり変えていく感じなので。だから、そんなに客席のことは気にしていないかも。どちらかというと、僕はアルゴリズムがつくる音をどう受け取るかという視点をもった、ものすごく極端な客になってその場にいる気がします。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;日野&lt;/strong&gt;：なるほど。古舘さんが演奏中に一番興奮する瞬間ってどういう時なんでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：さきほどの話と同じく、自分の感覚が浮遊する瞬間かな。ふっと浮いて自分の現実感がなくなると、空間も時間もすべてが止まって、ずっとその一瞬がパパパパパパパパって鳴り続けているみたいな。そういう瞬間が一番グッときますね。だから、本当に最高の瞬間になったら、自分ではもう何もしない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——何もしないというのは？&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：楽器の場合、何かしないと音が鳴らないのに対して、コンピューターやシンセサイザーの場合は、逆に音を途切れさせるのにアクションがいる、みたいな違いがあります。何もしなくても音は鳴り続けるんですよ。そこでハマる音空間が組み立てられたなら、ただただその音を聴きながら、どこまでその状態を維持できるかを考える。実際、僕のライブではいい感じになってきたら一旦ラップトップから離れて、楽屋でワインを1杯飲んでから戻る、なんてこともします（笑）。その浮遊感が、自分の求める快楽の源泉としてあるのかもしれません。&lt;/p&gt;


&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202602_01_04.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
photo: 井上嘉和
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;




&lt;h2&gt;コラボレーションの必然性はどこにあるか&lt;/h2&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——今回のコラボレーション、振り返ってみてどうでしたか？&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：僕は自分の作品をつくるのと同じくらい、こうして誰かと一緒につくる機会も多くて。初期は、自分のこの技術を使ってくれる人がいるんだったら、じゃあつくりましょうという割とカジュアルなスタンスでいました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;最近、坂本龍一さんとアルヴァ・ノトさんのコラボレーション作品を、あらためて聴き直す機会があったんです。なんていうか、互いに命をかけて音をつくってるな、みたいな印象を受けたんですよね。これまで僕がやってきたことは、コラボレーションとは言えないものかもしれないと思わされるくらい。コラボレーションというのはこうであるべき、というような。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;比べるようなことではないとは思うんですが、この作品では、多少なりとも、そういう一挙手一投足、すべて必然性をもったアクションができたのではないかと……。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——それが実現できたのは、何がポイントだったのでしょう？&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：何でしょうね……もとから日野くんとはセンスや求めている状態みたいなものが近いというのはあるのかも。コラボレーションできるかできないかというのは、何か見たり聞いたりしたときに、良いと思ったら、なぜそれが良いのか、説明しなくても互いに理解できるっていうのが一つのポイントだと思うんです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;城崎国際アートセンターのレジデンス期間に日野くんとリスニングセッションをしたことも大きかったかもしれない。クリエーションの後、毎晩、お互いの好きな曲を聴き合うみたいな時間でした。「これすごいよね！」とか言いながら、音楽に対する楽しみ方や価値観のすり合わせをしていくような。作品をつくる手前のところで、目線合わせができたように思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;em&gt;——最後の質問になりますが、このプロジェクトを通して何か新しいアイデアは生まれましたか？&lt;/em&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：今後やれたらいいなと思っているのは、ドイツ公演前に試していた、ストロボの点滅と太鼓の叩く速さをずらしていく方向性。あれは気持ち悪くて良かった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;日野&lt;/strong&gt;：あれは良かったですね。あと、点滅の速度のほうに演奏をバチバチに合わせていく曲もやってみたい。手が止まって見えるように演奏者のほうでBPMを調整していく、みたいな。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;：うんうん、演奏によってはひとりだけBPMをずらしていくとか。今回の作品は、最終的に要素を減らしていって、研ぎ澄ましていく方向性だったけど、そこで切り捨てていった方法やデバイスを使って、むしろ空間が主体になるような、この作品とは逆の方向性のものをつくってみたい。日野くんとは「GEIST」という作品から一緒にやりはじめたわけだけど、ああいうもっと要素の多いものとか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;日野&lt;/strong&gt;：今回、古舘さんとじっくり話してみて、あらためてこの作品は、僕の音楽だけでは到達できない、古舘さんのビジュアルエフェクトとの必然的なコラボレーションによって生まれたものだと実感しました。そして、それはまだまだ深化させられる余地があるという確信も。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;古舘&lt;/strong&gt;： そうだね。この作品は、これまで関わったもののなかでも、本当に奇跡的。こんなにスムーズにものごとが進んで、自分たちでも「これいいね」みたいな高揚感の生まれる作品って滅多にない。プロジェクトを今後も続けていきたいと思えるし、まだまだ可能性がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;日野&lt;/strong&gt;：「まだまだいける」っていうその感覚が、今の僕らには一番重要ですね。&lt;/p&gt;


&lt;figure class=&quot;figSty01 w1000&quot;&gt;
&lt;div class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;/wordpress/wp-content/uploads/202602_01_05.jpg&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;figcaption&gt;
photo: 井上嘉和
&lt;/figcaption&gt;
&lt;/figure&gt;




&lt;!-- ソーシャルリンク --&gt;
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&lt;div class=&quot;col&quot;&gt;&lt;a href=&quot;/column/category/インタビュー・対談/&quot;&gt;インタビュー・対談&lt;/a&gt;&lt;/div&gt;
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&lt;!-- イベント情報 --&gt;
&lt;section class=&quot;related&quot;&gt;
&lt;header&gt;
&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;Events Information&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;イベント情報&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;
&lt;/header&gt;
&lt;h4&gt;日野浩志郎新作コンサートピース｜「Chronograffiti」&lt;/h4&gt;
&lt;table class=&quot;events_info tbl_fixed mb55 section165&quot; summary=&quot;イベント情報&quot; cellspacing=&quot;0&quot; cellpadding=&quot;0&quot; border=&quot;0&quot;&gt;
&lt;tbody&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th width=&quot;120px&quot; scope=&quot;row&quot;&gt;会場&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;山口情報芸術センター［YCAM］スタジオA&lt;/small&gt;&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th&gt;公演日時&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
2026年2月21日（土）19:00 開演
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;料金&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
前売り（全席自由）&lt;br/&gt;
一般＝3,500円、any会員＝3,000円、特別割引＝2,500円、25歳以下＝2,500円&lt;br/&gt;
当日（全席自由）&lt;br/&gt;
一般＝4,000円、特別割引＝3,500円、25歳以下＝3,500円
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;チケット取り扱い&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;
山口情報芸術センター［YCAM］Webサイトにて&lt;br/&gt;
&lt;a href=&quot;https://www.ycam.jp/events/2026/chronograffiti/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;https://www.ycam.jp/events/2026/chronograffiti/&lt;/a&gt;
&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;作曲&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;日野浩志郎&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;ビジュアルエフェクト&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;古館 健&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;出演&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;安藤 巴、谷口かんな、前田剛史&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;主催&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;公益財団法人山口市文化振興財団&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;後援&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;山口市、山口市教育委員会&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;共同開発&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;YCAM InterLab&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;tr&gt;
&lt;th scope=&quot;row&quot;&gt;企画制作&lt;/th&gt;
&lt;td&gt;山口情報芸術センター［YCAM］&lt;/td&gt;
&lt;/tr&gt;
&lt;/tbody&gt;
&lt;/table&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;!-- イベント情報 END --&gt;




&lt;!-- プロフィール --&gt;
 &lt;section class=&quot;profile mt60&quot; id=&quot;_profile&quot;&gt;
&lt;header&gt;
&lt;h3 class=&quot;secTitSty01&quot;&gt;&lt;span class=&quot;en&quot;&gt;PROFILE&lt;/span&gt;　&lt;span class=&quot;ja&quot;&gt;プロフィール&lt;/span&gt;&lt;/h3&gt;		
&lt;p class=&quot;linkSty01&quot;&gt;&lt;a href=&quot;javascript:window.location.href = location.pathname;&quot;&gt;&lt;span&gt;記事の冒頭に戻る&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/header&gt;
&lt;section&gt;
&lt;h4 class=&quot;secTitSty02&quot;&gt;古舘健｜Ken Furudate&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;1981年神奈川生まれ、京都在住。コンピュータープログラミング、メカトロニクスなどを用いて、インスタレーション、ライブパフォーマンスなどをおこなう。第22回 文化庁メディア芸術祭にてアート部門大賞を受賞（2018年）。2002年よりサウンドアートプロジェクト「The SINE WAVE ORCHESTRA」を主宰。第二回横浜トリエンナーレ（2005年）をはじめ、国内外、様々な展覧会にて作品を発表。Prix Ars ElectronicaにてHonorary Mentionを受賞（2004年、2019年）。2014年よりDumb Typeメンバー。高谷史郎、坂本龍一を始め、様々な作家の制作に参加。&lt;/p&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;section&gt;
&lt;h4 class=&quot;secTitSty02&quot;&gt;永江大｜Dai Nagae&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;編集者。1985年生まれ。現在、大阪を拠点に活動、編集事務所MUESUM所属。2024年より、日野浩志郎と詩人・池田昇太郎による音と声のプロジェクト「歌と逆に。歌に。」に記録編集として伴走中。&lt;/p&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;/section&gt;
&lt;!-- プロフィール END --&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;</data>
			</item>
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