AMeeT
COLUMN

コラム

京都の女性運動と「文化」 第2回(全3回)――〈シャンバラ〉以後、1980年代のリブ運動村上 潔(女性史研究者)

2014 07 08

こうした世代間のギャップがどこまで〈とおからじ舎〉全体の活動に影響していたのかはわからないが、1986年6月の本発行以降の〈とおからじ舎〉の活動は記録では確認できない。冬木花衣の証言によれば、〈とおからじ舎〉は、1987年の春にその活動を終える(滝川・冬木・ぶんた 2007: 41)。滝川マリは、その実態を以下のように語っている。

結局、私たちは〈シャンバラ〉の閉じ方に憤っていて、それが原動力だった部分もあるんだけど、そういう初期衝動が過ぎたあとに、どうするかっていうことだったと思う。個人的に目指すものを見つけた人もいたし、見つけられない人もいたし。そのへんが意識の上でばらばらになった、ってことかな。個別に運動の支援をしていたメンバーは、現場である東京に行っちゃって。スペースのために毎月少ない給料の中から払ってるのに、一人減り二人減り、じゃあ持続できないじゃない。となるともう閉じるしかないかな、ってなった。(滝川・冬木・ぶんた 2007: 41)

こうして〈とおからじ舎〉の活動は、実質3年間にとどまった。ここには〈シャンバラ〉のときとはまた違う「限界」があった。しかし、リブの女たちはこれで運動を、運動を構築する試みを、やめることはなかった。この「限界」をさらに乗り越えるべく、新たな活動を開始する。それは次回に紹介したい。そこでやっと、70年代後半から90年代という、運動の低迷・衰退期とみなされている時代のなかで、京都の女たちがどう活動してきたのか、その意味はどこにあるのか、それでも立ちはだかる「限界」はどこにあるのかを見定めることができるだろう。

〈とおからじ舎〉が1986年に出した本のタイトルは、『あさってに虹を駆ける』である。「あした」ではなく「あさって」。運動の道のりが遠く困難に満ちていることを表している。そして「架ける」ではなく「駆ける」。一気に問題を解決する夢のようなツールを期待するのではなく、自分たちの足で、自力で進むということだ。しかし、駆ける道のりは「虹」(空)である(写真1参照)。オプティミスティックで、ファンタジックだ。シビアな現状認識があるからこそ生まれる希望。彼女たちの活動スタイルをそのまま表しているように思える。
〈とおからじ舎〉を外から見た一人、ぶんたは、スペースとしての〈とおからじ舎〉をこう語っていた。

私は、〈とおからじ舎〉のスペース、一回だけ行ったの。すてきなスペースだったわ。みんながこう、力いっぱい維持してるっていうのがすごくよくわかって。でもあれは終わりかけの時だったけど。(滝川・冬木・ぶんた 2007: 43)


PAGE TOP