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ARCHIVES

アーカイヴと再制作

連載「巨大な書庫で迷子になって」(全3回)第3回:ポピュラー・カルチャーとアーカイヴ——期待と困難文:佐藤守弘(視覚文化研究)

2018 03 31

4. 終わりに

原田健一、水島久光編『手と足と眼と耳——地域と映像アーカイブをめぐる実践と研究』(学文社、2018年)が先頃刊行された。新潟大学を中心に実践されている地域映像アーカイヴをめぐる共同研究の成果である(※15)。

同書の第一章、水島久光「ソーシャル・デザインとしてのデジタルアーカイブ」では、1990年代中盤からのデジタル・アーカイヴをめぐるさまざまな動向の歴史が辿られ、そこに見える「噛み合わなさ」が腑分けされている。その中で、デジタル化によって、「公的な記録」という従来のアーカイヴが扱っていた領域に、「私的」「記憶」という、これまでは対象にならなかったものが入ってくると水島は指摘する。そこで問題として浮上するのは、従来は不問に付されてきた「残され、活用の対象となる『記録』とは『いったい誰の、何のためのものか』という議論」(13〜14ページ)であると言う。実際、ポピュラー・カルチャーのアーカイヴの困難が提起するのも、この議論の必要性なのではないだろうか。

全3回にわたるアーカイヴに関する連載で明らかになってきたのも、従前は不問に付されてきた諸問題を、デジタル・アーカイヴが不可避的に可視化させてしまうという点であったのかもしれない。たとえば、第一回の「美術館とオンライン・アーカイヴ」で指摘したのは、アーカイヴのデジタル化が、近代的な芸術概念のよってたつ基盤を揺るがせてしまうという点であり、第二回の「写真とオンライン・アーカイヴ」で指摘したのは、デジタル化がメディアそれぞれの持つ特性を等価化してしまうという点であった。もちろんこれらのことは、現代思想や芸術運動や情報理論のなかで、相当前から主張されてきたことであるが、それを喫緊の事態として浮上させてしまうのが、アーカイヴのデジタル化であるのかもしれない。

とくに公文書をめぐる問題が連日報道され続けている現在こそ、アーカイヴとは一体何であるのかをつねに問い続けなければいけないのではないかと考えている。アーカイヴとは、つまるところ現代社会の基盤であり、いまや私たちはそれなしで生きることができなくなってしまっているからだ。

※15)私は、京都の小学校で1959年に編まれた郷土誌を、一種のアーカイヴ的実践として捉える論攷「郷土を調べる子どもたち——『北白川こども風土記』と〈アーカイブする実践〉」(216〜233ページ)を寄稿した。


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