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「かげ」を「うつす」こと
――展覧会「かげうつし―写映・遷移・伝染―」に寄せて林田 新(京都造形芸術大学/関西大学/京都精華大学非常勤講師)

2012 12 27

「映像」という言葉が広く用いられるようになったことの背景には、デジタル化に伴い、これまでの区分が曖昧になっているというこうした事情があるのではないか。すなわち、既存のジャンル的区分によって分節されてきた全体を、暫定的に包括する言葉として、とりあえず「映像」という言葉が充てられているように思われるのである。もちろん「映像」という言葉が意味するのは、光学的な像である。しかし他方で、今日「映像」という言葉は、デジタル対アナログという二元論や、既存の区分をなしくずしに越境する包括的な概念として用いられているのである。こうした「映像」という言葉を肯定的にとらえ、そこに含意されうる豊かさを可能な限り意識すること、それが本展で「かげうつし」という言葉を採用したことの理由である。

「映像」とは「映された像」である。では「映す」とは何か。日本初の近代的な国語辞典である『言海』の増補版『大言海』によると、「映す」とは「影ヲ移ス」ことである。では影とは何か。「かげ」は、光が遮られた暗い部分、物事の表面にあらわれてこない裏面を指す。と同時に、光や発光体、目に映るものの姿形、鏡や水面などに映る色や形でもある。それは一方で「真影」というように肖像であり、他方で「幻影」・霊魂でもある。影の響き、「影響」は、過去を引きずることもあるし、ときに、未来へ投影されることもある。

「うつす/うつし」もまた、極めて豊かな意味をその内に含んでいる。それは反射や投影といった光学現象である(写し/映し)。加えて、「移す・遷す」という空間的・時間的な移行を意味する。日時計は、光学的に盤に「うつる」影が空間的に「うつり」変わることで、時間的な「うつりかわり」を示す器具である。さらに、「遷都」という言葉が端的に示しているように、「うつす/うつる」は空間的な移動にとどまらず、そこにまつわる権威の移行をも含意する。

そうした「うつす/うつる」は、映像とも無関係ではない。たとえば、天皇の肖像、いわゆる御真影は、天皇の身体が写真に「うつる(写る)」のみならず、そのアウラが写真に「うつる(移る)」からこそ価値を持つ。それに対して、特に悪い現象や性質の移行により、他のものに悪い影響を与えることを指して「伝染る」といったりもする。映画「リング」(1998年)が描いていたのは、ビデオ映像を介してそれを見た人の身体に呪いを「うつす」ということであった。その映像をダビングすること、すなわち別のビデオに「うつす」ことが呪いを解く鍵となっていたことも重要である。

また、「うつし」は、不可視と可視、この世とあの世、不在と存在をも媒介する。たとえば、亡霊やモノノケの「のりうつり」であり、「顕現(現し/顕し)」は、神仏や亡霊など、形無きものがはっきりとその姿をあらわすことを指す。心霊写真とは、亡き人の幻影がこの世への「現し」として写真に「写った」ものである。さらに、この世ならざる世界や夢に対する現世を「うつし世」と呼ぶ――うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと(江戸川乱歩)。

もちろん、こうした「映像」から「かげうつし」への言い換えはレトリカルな言葉遊びに過ぎず、学問的な厳密さ、概念としての纏まりを備えているとは到底言い難い。その意味において「かげうつし」展は、出展作品を「かげうつし」という言葉で特徴づけることも、この言葉を体系的な概念として提示することも目指していない。そうではなく、これまで何となく「映像」と呼び表してきた事柄の傍らにこの言葉を添えることを通じて、「映像」についての常識的な認識を揉みほぐし、新たな「映像」の在り方の発見へと開いていくことなのである。

展覧会「かげうつし―写映・遷移・伝染―」会場風景 撮影=豊永政史


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