AMeeT
EVENT REPORT

イベント・レポート

現代美術二等兵 駄美術展<はやく美術になりたいっ!~俺たち美術の出来損ない~>
<今月の駄美術展~2008.7-2009.6 Casa BRUTUS連載>

2009 12 21
会 場: MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w
http://www.voicegallery.org
会 期: 2009年11月10日(火)~23日(月)

駄美術の駄は、駄菓子の駄と同じだ。お菓子に駄菓子があるように美術にも駄美術があっていいじゃないか、と2人組アーティスト:現代美術二等兵がつくった言葉。もちろん、一般名刺ではなく、いわば彼らのパテントであり、彼らがつくる作品のすべてをさしている。こつこつと17年間活動を続ける中、メンバーの籠谷シェーンとふじわらかつひとが大阪と東京に離れているため、それぞれの持ち場で徐々に固定ファンを獲得するとともに<駄美術>という言葉もそろそろと広まりつつある。駄美術は、笑えてナンボであるが、その笑いは、二等兵の悲哀やおかしみ、弱いモノや情けないモノへの愛情がベースである。そういう意味では、<駄美術>も現代美術の系譜に則っているといえるが、これまでは、軸足であるところの<美術>からほとんど褒めてもらったことがない。毎年恒例の<駄美術展>、そろそろ現代美術二等兵と<駄美術>を美術の側から語ってみようと、レポートを思い立った。

ちなみに、これまでの駄美術作品はこちらを参照のこと。

http://homepage3.nifty.com/2touhey/

私も、もとはといえば駄美術と現代美術二等兵の一ファン。私の画廊で展覧会を開催するようになって、今回は3回目の展覧会である。これまで同様、籠谷やふじわらは各々勤めから帰宅後、睡眠時間を削って制作した。そういう作品を「こんなの美術じゃない」と誰がけなしたか知らないけれど、それらにはちっぽけなネタを形にするまでの努力とこだわりが滲み出ており、爆笑と同時にじわっとこみあげるものがある。素材の吟味や手技にも、これが美術でなくて何やねんと言いたくなる、手仕事としてまっとうな美術なのである。既存の美術の価値観に対して飄々と17年我が道を歩んできた結果、現代美術二等兵の作品は、いまや既存の<美術>という軸足の評価を必要とせず、ダビジュツという新境地に達したというのが、今回の実感なのである。しかし、<駄美術>を継続させること自体が、現代美術的でもある。駄美術は、美術界のガラパゴス諸島であるかのように、現代美術二等兵のみによって独自の現代美術生態系を築き、その中での進化や対応を繰り返してきたといえまいか。

籠谷とふじわらは、スター級が次々輩出される彫刻科を卒業した頃、それらしい現代美術の型にはまるのではなく、「自分のつくりたいもんをつくろう」と割り切ったときから、自分たちは<それ>の根幹である現代美術の文脈や潮流と無縁でやってきた。しかし、きょうび無縁であり続けることのほうが、周到にに意図的に振る舞わなくてはならない。これまでの彼らの展覧会タイトルを並べてみるだけで、彼らが、それらしい現代美術も横目に見ながら、彼らなりの文脈を構築しつつ、自信を得て調子に乗ったこともあれば、いじけて<駄美術>にひきこもったこともあったのがよくわかる。

しかし、彼らが抵抗感や不信感を抱いてきた現代美術の文脈でいうところのコンセプチュアルということと、芸術作品が市場や歴史に残るために持ち合わせた大衆性、つまり<駄美術>においては根幹である大衆性と明快さは、その実背中合わせである。また、駄美術の基本的な作法は、スケールアウト、暗喩や隠喩、引用、カットアップやリミックスなどであり、コンセプチュアルアートと同じ作法が用いられている。現代美術は、思考の回路を築くことであって、自分たちのこの世界をどれだけスケールアウトさせたり位置ずらしができるか、を私たちは語りあってきた。その意味では、たとえばオラファー・エリアソンの都会の上空の人工夕陽や橋脚に出現する巨大な滝、クリストが覆った島・橋・建物、オルテンバーグの巨大なサクランボや掃除機などの彫刻作品なども、駄美術の隣人である。ただし、隣人との大きな違いは、駄美術には、現代美術二等兵メンバー2人の日本人・関西人であるドメスティックな文化と、個人の思考や環境などの特性が不可欠なのと、「可能なこと」で世界を構成しようとするという点だ。前述の国際的な3アーティストたちは、「不可能なこと」の側から世界を見ている。そして、どちらかといえば、それらしい現代美術の文脈は、「不可能性」ともいえ、それは、すなわち欧米的文化的振る舞いなのではないか・・・と私は思うのである。一方、<駄美術>のようにベタな「可能なこと」の試みには、作者と観客の間に、同じオチヘたどり着くという安心感と共感が存在する。これは、明治を迎えるまでの日本の美術が、普通の暮らしの中で、先で彫刻と呼ばれるようになるものを<置物>と呼び、同じく絵画を絵と読んで親しんだことと無関係ではなかろう。

 欧米文化が、「不可能なこと」へのチャレンジとするなら、とうぜん、現代美術の<駄美術>は、欧米的現代美術から漏れ落ちるわけである・・。

 なにやら、現代美術二等兵<駄美術>を固有のダビジュツと信奉(?)するあまり、本家現代美術といかに異なるかを力説してしまった。が、要するに、彼らが彼ららしくいじけ続けるためには、加工を施してはならないという確認である。彫刻が置物に回帰してもよいのである。固有であり続ければ、いつかそれは伝統となるし、つまり、駄美術に関していえば、彼らも私の画廊も、美術のガラパゴス諸島のいっそ世界一有名な亀:ロンサム・ジョージになるしかないのである。それは、可能なことと不可能なこととのハイブリッドであるまいか・・・。
(松尾 惠 VOICE GALLERY pfs/w)

「アポロ計画胸像」

「アポロ計画胸像」

「化けエコ」

「化けエコ」

「フライング」

「フライング」

「ハリウッド版」

「ハリウッド版」

「未完の大作」

「未完の大作」

撮影:藤場美穂


PAGE TOP