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朝靄の道行文:木ノ下 裕一(木ノ下歌舞伎 主宰) 絵:ヤマガミ ユキヒロ(現代美術家)

2014 05 04

景清さんは、膝の上においた左手を強く握りしめ、食い入るように見ている。時折、掌の筋肉がぎゅうぎゅうと軋む音が聞こえた。
八千代師が、敵の兜を掴む振りを見せる。すると、それをうけて右手に盃を持った景清さんが「ほうぉ」と大きな息をついた。それから一言、かすかに聞こえる声で、
「…懐かしいなぁ」
とつぶやいた。

景清さんが何を懐かしがっているのか、わたしには手にとるようにわかる。きっと、そうだ、あの時のことだ。
屋島の陸で、源氏の強者・三保谷(みおのや)四郎を組討とうとした時。逃げようとする三保谷の兜の錣を引っ掴み、両者一歩も譲らず引き合い、とうとう錣がちぎれ、二人ともどすんとその場で尻餅をついた。三保谷が「腕の強き」と景清を誉めれば、景清は「首の骨こそ強けれ」と三保谷を讃え、お互いに笑い合った、あの時。二人とも、血で血を洗う戦場(いくさば)であることも、敵味方であることを忘れ、大いに笑い合った。あの時、確かに、二人のあいだには、二人にしかわからない〈あたたかい〉ものが流れていたように思う。それは、景清という男が、人間らしく生きることができた、最後の瞬間でもあったのかもしれなかった。

ふいに景清さんが、笑った。はじめは小さく、しだいに大きく、豪快に笑った。それを見て、あんつる先生も笑った。山城のお師匠っさんも、近松先生も微笑んでいる。景清さんの笑い声が、宙(そら)高く響いた。

〈敵と見えしは群れ居る鷗(かもめ) 鬨(とき)の声と聞えしは 浦風なりけり高松の 朝嵐とぞなりにける〉

八千代師が一礼し、静かに舞納めた。ほうぉという息が皆々から洩れる。誰も拍手をしようとしない。いや出来ないのだ。みな、感に入って、金縛りにでもあったかのように微動だにしない。八千代師は、それがなによりの喝采だといわんばかりに、満足げに微笑んでいる。いつの間にか朝靄は消え、水面のさざ波が朝日に照らされて、きらきらと金色(こんじき)に輝いている。その景色の背景に、なおも微笑む八千代師の姿は、竹生島の弁財天とはかくやと思うほど、神々しく見えるのだった。人間はこれほどまで見事に、自然に溶け込むことができるものか。

戦に群がる武者がやがて沖の鷗に姿を変えたように、鬨の声が朝嵐に変化したように、人間はやがて死して、自然の中に還っていく。悲苦も、涙も、喜びも、すべて抱えて自然に還っていく。死んだのち、自分のことを思い出してくれる人は、いないかもしれない。それはあまりにも辛く、儚い。
武蔵坊弁慶には〈武勇伝〉がある。源義経には〈栄光〉があった。敗軍の将と言えど新中納言知盛は〈滅びの美学〉を残した。しかし、悪七兵衛景清には何が残ろう。源平の戦の〈暗さ〉を一手に引き受けたこの悲運の武者のことを誰が語ろう。〈歴史〉は常に、勝者の側から語られる。それに漏れ落ちた人々の名は、やがて忘れ去られていく。
しかし〈芸能〉はちがう。芸能は常に、敗者の側に、やさしい眼差しを向けている。敗者を描くことで、国や政治や社会の非情さを暴き、敗者の心の中に、人間の普遍的な機微を見出そうとする。
そのことが、今の八千代師『長刀八島』を観て、よくわかった。
八千代師は、景清さんのためだけに舞ったのだ。同時に、これは名も無く生きて、やがて死ぬ、すべての人々に捧げられた舞でもあったのだ。
救われた。心からそんな気がした。

ふと、隣の景清さんのほうを見ると、膝に置かれた手の甲に、ぽたぽたと水滴が滴っている。今度はけっして、盃の酒が漏れているのではないことが、わたしにも、よくわかった。

主な参考文献

『平家物語 四』梶尾正昭・山下宏明校注(岩波文庫)

『謡曲 平家物語』白洲正子著(講談社文芸文庫)

『日本古典文学大系 近松浄瑠璃集 上』(岩波書店)

『文楽 床本集』(国立文楽劇場)

『豊竹山城少掾覚書』藤田洋編(国立劇場調査養成部)

『上方芸能辞典』森西真弓編(岩波書店)

『安藤鶴夫作品集』安藤鶴夫著(朝日新聞社)

『京洛舞台風土記』戸板康二著(駸々堂)

『井上八千代芸話』片山慶次郎著(河原書房)

『井上流歌集』(非売品)

掲載作品(描き下ろし)

P6. 『Noises, Crowds, and Silent Airs(習作)』 2014年
キャンバスプロジェクション(紙に鉛筆、HD ビデオ)

P10. 『大沢池の眺望(習作)』 2014年 キャンバスプロジェクション(紙に鉛筆、HD ビデオ)


ヤマガミ ユキヒロ YAMAGAMI Yukihiro

ヤマガミ ユキヒロ YAMAGAMI Yukihiro

現代美術家。1976年 大阪府生まれ。2000年 京都精華大学美術学部造形学科卒業。絵画に映像を投影するキャンバスプロジェクションという手法で主に作品を発表。主な展覧会に「六甲ミーツ・アート芸術散歩2013」(六甲山・兵庫/2013年)、「すみだ川アートプロジェクト2013」(アサヒアートスクエア・東京/2013年)、「re:framing-表情の空間-」(京都芸術センター・京都/2013年)、個展「little trip」(Gallery PARC・京都/2013年)、「始発電車を待ちながら」(東京ステーションギャラリー・東京/2012年)、個展「Sheltering Sky」(Gallery PARC・京都/2011年)などがある。

Yamagami Yukihiro Works
http://www.yamagamiyukihiro.net/


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