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朝靄の道行文:木ノ下 裕一(木ノ下歌舞伎 主宰) 絵:ヤマガミ ユキヒロ(現代美術家)

2014 05 04

―はや、清水寺に着きにけり。
いつの間にか、隣には男が座っている。
いよいよ、お出ましになった。観音様への参拝もそこそこに、清水の舞台のすぐ下にある茶店に腰かけて、茶店の床几(しょうぎ)に敷かれた紅い毛氈の色がくすんで見えるほどの、見事な彩りの紅葉の景色を眺めながら、お茶をゆっくりすすっていたのは、この男が出てくるのをじっと待っていたからにほかならない。

「あんなことに、なってしまったから…」
おもむろに、男が地鳴りのような低い声でつぶやく。気長に、次の言葉を待つことにした。
しばらく間があいてから、
「あんなことに、なってしまったから…もう、何も見たくない…」
男はひどく弱気だ。かつて平家の強者と名高く、豪快奔放に振る舞っていたとは信じがたい。髪はざんばら、やつれた顔には青筋のような隈が浮かんでいる。なのに、眼だけは嫌にぎらぎらとして、濁った光を放っている。

思ったとおりの人だ。わたしは以前から、この男に会ってみたかった。 元々、観音様への信仰心が厚い人だっただけに、もしかしたら、今でも清水寺に日参しているかもしれぬと思い、こうして、待っていたのだけれど、いざ出くわしてみると、なるほど、その妖気ただよう無明の暗さ、〈不気味さ〉は筆舌に尽くし難い。

男は、黙って目の前の滝を虚ろに眺めている。この滝は音羽の滝といって、遠目からは紐が三本垂れ下がっているように見えるごく細い滝だが、見た目とはうらはらに、その水圧はなかなか立派なもので、力強い水音をたてながら、勢いよく滝壺めがけて流れ落ちる。学生服を着た修学旅行生が列になって、きゃっきゃいいながら、順々に滝の水を柄杓(ひしゃく)に受けては、呑んでいる。いつもの、なんの変哲もない昼下がりの清水寺の風景だ。この男は、そんな光景を眺めながら何を思っているのだろうか。きっと滝の水音を聴きながら、思い出しているに違いない。あの時の〈水の音〉を、思い出しているに違いない。

あれは、屋島の海―。陸(くが)には源氏の軍勢、海には船中の平家が固唾を呑んで見守るなか、びゅぅぅという唸りをあげた一本の矢が、紅地に金箔で日の丸が描かれた扇を、見事射抜いた。扇はひらひらと宙を舞い、春風に揉まれながら、さっと海に散った。しばしの静寂ののち、地響きのような喝采が巻き起こる。沖の平家は船べりをたたいて感嘆し、陸の源氏は箙(えびら)を叩いて、那須与一という若者の快挙を愛でた。海はきらきらと夕日に輝いて、金泥を流したかのように美しい。―と、その時、興にのった平家の老武者が、「敵ながらあっぱれ」と白柄の長刀を持って船上で舞いはじめた。その舞は実に滑稽で、また、武者たちは湧いた。緊迫した戦場に、しばし和やかな風が吹くかと思いきや、無情にも与一が放った二本目の矢が、老武者の首を射抜く―。首の骨を砕く鈍い音がして、老武者は、大きな水飛沫を上げながら海の底へ真っ逆さまに落ちた。またもや源氏は大きな歓声を挙げる。平家の軍勢は、敵のあまりの非道ぶりに言葉がでず、しんと静まりかえっている。その中に、この男もいた。男は怒りに震えていた。堪えきれず、波を蹴立てて、陸の敵陣に一人乗り込んでいった。そして大音声をあげて、こう名乗ったのだ。
「日ごろ音にも聞きつらん、我こそ上総(かずき)の悪七兵衛景清ぞ」―。

老武者の死骸が海に崩れ落ちる時の、あの大きな水音が、男の耳からはいつまでも離れないのだろう。あの音は、景清自身の〈信じて疑わなかったもの〉が無惨に崩れ落ちる音でもあったからだ。それは、都人の雅な戦のしきたりなど坂東武者の源氏には通用しないことを思い知らされた瞬間であり、一つの時代が終わりを告げた音だった。そして、自分の運命が大きく狂い始める音でもあった。そのあと平家は坂を転げ落ちるように敗北を繰り返し、とうとう壇ノ浦まで追い詰められた。戦場の不文律を侵して、民間人の水夫(かこ)を次々に殺めていく敵を前にして、成すすべもない。気が付けば、戦は終わり、海は、打ち捨てられた無数の平家の赤旗と、仲間たちの血潮で、真っ赤に染まっていた。景清はどんな思いで朱に染まった海を見たのだろう。すべては〈見たくないもの〉だったに違いない。そして、今、滝の音に何を想い、どんな気持ちで、この真っ赤に色づいた清水の紅葉を見ているのだろう。

ふと、隣の景清のほうを伺うと、膝に置いた彼の手に、ぽたぽたと水滴が滴っている。もしや泣いているのかと、目を凝らしてみると、なんてことはない、茶碗にヒビでも入っているのだろう、呑みかけのお茶が茶碗からぽたぽたと洩っているのだった。


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