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朝靄の道行文:木ノ下 裕一(木ノ下歌舞伎 主宰) 絵:ヤマガミ ユキヒロ(現代美術家)

2014 05 04

春・四条大橋

南座の前を通りかかった。まだ、景清さんと一緒である。逢う前は、色々聞いてみたいことがあったのに、いざ逢ってみると、言葉にならず、間がもたない。それでいて、「それじゃね」、とさらりと別れられないのは、何もしてあげられない自分の無力さをどこかで認めたくないからかもしれない。

顔見世興行の真っ只中の南座は、小屋の紋が大きく染め抜かれた〈櫓〉が高々と掲げられていたり、その下に、勘亭流という歌舞伎独特の太い文字で役者の名前が書かれた〈まねき〉と呼ばれる看板が無数に掛けられていて、一際、壮観である。
ふと劇場の前に佇み、櫓を見上げる一人の老人の姿が目にとまった。まさか!とは思ったが、やっぱりそうだ。この、顔に深い皺をいくつも刻んだ古武士のような風格を持った老人こそ、〈作者の氏神〉として名高い、近松門左衛門先生に違いない。
「先生!」
「ああ、君か」
この先生はいつも言葉数が少ない。朴訥(ぼくとつ)とお話しになる。
「いや、坂田藤十郎に四代目が出来たと聞いたものだから、ちょっとね」
「それでお見えになったんですね」

先生がまだ現役の頃、このあたり一帯は、大小いくつもの芝居小屋が犇(ひし)めく歓楽街だった。出雲の阿国がかぶき踊りを見せて、都の人々を熱狂させた頃から今日まで、一度も芝居と縁が切れたことがない〈芸の街〉なのだが、今では、残る芝居小屋は〈南座〉の一軒。かつて双璧であった〈北座〉は観光客相手の土産物屋になっている。近松先生のかつての盟友・坂田藤十郎はすでに四代目と代を重ね、根城にしておられた都万太夫座は跡形もない。昔のように有象無象の芝居者が行き交うこともなければ、あちこちにはためく幟も見えない。近松先生はどんな想いで南座を眺めているのだろうか。そう考えると、南座の外壁が巨大な〈仏壇〉のように見えてきた。〈御神仏〉は櫓、役者の名を書き連ねたまねきは〈位牌〉。四条河原(ここ)で蠢めきつつ血と涙を流した芝居者たちを弔うために残された、唯一の仏壇がこの南座だ。

「お久しぶりですね」
先生は、どうやら景清さんに挨拶をしている。あ、そうか、先生と景清さんは古くから顔見知りなのだ。
「その後、いかがですか」
もともとは武家の出とも噂される先生は、芝居者には珍しく、誰に対しても丁寧に接する。あまり他人の事には踏み込まないほどの良さを、時に物足りなく思うこともないではないが、根は人好きで、他人に対する好奇心と愛情が深いことは、先生の書く作品で知ることができる。
「どうも、そのせつは、ありがとうございました。しかし、まだこうして、このあたりをうろうろしております」
景清さんが、申し訳なさそうに、一段と小さくなって答える。
「そうですか…。あまりお力になれず、すみません」

先生は、以前、人形浄瑠璃の竹本座に『出世景清』という作品を書き下ろしたことがあった。竹本義太夫とタッグを組み、景清という人物を借りて、人間の悲哀と、心の襞(ひだ)の裏側まで丹念に見せる作風で、それまでの古浄瑠璃とは一線を画す、新しい〈浄瑠璃の姿〉を具現し大評判であった。わたしも、景清が牢獄の中から、妻・阿古屋と子供たちと交わす会話に涙した。先生の作品は、〈人間救済〉が主題になっていることが多い。どこにも救い手のない男を、遊女が観音様の化身となって冥途に誘う心中物や、行き場のない不良の若者の、その内面に巣くる焦燥感を見事に描き切った世話物などがいい例だ。それは〈筆でひとを救えるか〉という、作家自身の命題でもあったのだろう。豪傑・景清の皮を剥ぎ、強さと弱さの間に揺れ動く『出世景清』をしたためた時も、きっとそう考えていたに違いない。その先生をしても、今、こうして、景清さんを目の前にして、無力感を感ずるのだから、もはや、わたしなどに出来ることなど、なさそうである。


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