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朝靄の道行文:木ノ下 裕一(木ノ下歌舞伎 主宰) 絵:ヤマガミ ユキヒロ(現代美術家)

2014 05 04

夏・大沢池

四条から大沢池まで、ずいぶんと道のりがある。もう日が暮れたというのに、どうやっていくのかと尋ねたら、清八は懐から小さな二本の木切れを出し、得意げにこう答えた。
「なに、寝ぼけたこと言うてんねん。わしらにはこの小拍子があるやないかい。〈その道中の陽気なこと~〉言うて、これをぴしゃっと打ったら、愛宕の山でも、鞍馬の山でもひとっ飛びや。ええか、わしによう掴まっておくれやっしゃ。振り落とされたらあかんよってな」

〈皆々、揃うて、大沢池に道をとって参ります。その道中の陽気なこと~〉

清八が声を張り上げ、橋の欄干に小拍子を打ち付けた。ぐわぁっと体が持ち上がる。ふわふわと宙に浮き、見る見るうちに、眼下に四条の街が広がった。鴨川は天の河か、街の賑わいの灯が星空のように見える。寄席の下座囃子の代わりでもあるまいに、実にいい間で先斗町の茶屋から長唄が流れはじめた。

〈四条の橋から 灯が一つ見ゆる 灯が一つ見ゆる あれは二軒茶屋の灯か あれは二軒茶屋の灯か 円山の灯か、ウーイそうじゃえ、ええそうじゃいな〉

夜更けの大沢池は、静かであった。
どこから誂えたのか大きな龍頭舟が一艘、つないである。舳先から艫までが四間、幅はゆうに一間半はあろう。龍頭舟というと平安朝の豪華絢爛なものを思い浮かべるが、この舟は少し変わっている。全体が白木造り、ところどころに金泥と朱をあしらい、船べりには五色幕ではなく古代紫に染められた幔幕が掛けられ、全体に実に品がいい。篝火(かがりび)がめらめらと音を立てながら、龍の頭を照らしている。
船頭が、ねじり鉢巻きを手際よく結びながら
「お揃いですかな。そしたら順番に乗っておくれやす」
と、渋いしゃがれ声で客を促す。今宵の役者は揃ったようだ。
まずは年の功の近松先生が、能役者が橋掛かりを歩くように、しずしずと板を渡り、舟に乗り込んだ。まるで〈翁〉のような風格。次に豊竹山城少掾とあんつる先生が、暗く浮かび上がる山々の影を眺めながら乗り込む。さだめしお二人が露払い、〈千歳(せんざい)〉というところだろう。お次は賑やかな〈三番叟〉、喜六清八が、伊勢音頭を唄いながら喧しく、飛び乗ったので、舟がぐらりと揺れて、「こら!」と、あんつる先生にたしなめられている。目の見えない富崎春昇師をかばうように手を引いて、ゆっくり乗り込むのは、井上八千代のお師匠っさんだ。最後に、わたしと景清さんが座についた。座った途端、ぷんと檜の匂いが鼻をかすめた。舟床に節目ひとつない檜を使うとは、なんと贅沢なことか。
船頭が待ってましたとばかりに
「お履き物(もん)直ってまんな。はな、ぼちぼちやらしてもらいます」
と、棹に力をかけて、漕ぎ出した。水面にかすかな波紋を描きながら、舟が池辺をゆっくり離れていく。

空には、薄い夏の月が掛かっていて、遠くから虫の音が聴こえる。山から涼しい風がおりてきて、実に心地がいい。
目の前には、膳が並んでいる。落ち着いた朱色の漆器には、それぞれ、鮑の薄造り、鱧のあらい、京野菜の炊き合わせ、雲丹豆腐などが盛り付けられ、焼き物は鮎の塩焼き、まさに山海珍味を絵にかいたようだ。「灘に親戚がいるので酒にはうるさい」と豪語する清八が、特に吟味した上酒の横に盃が添えられている。古風に盃でいただく趣向も、悪くない。宴がはじまった。差しつ差されつ、盃も進み、会話も弾む。
近松先生と山城のお師匠さんが膝つき合わせて神妙に話し込んでいる。おそらく義太夫の〈風(ふう)〉がどうの〈音(おん)遣い〉がどうのといった難しい話をしているのだろう。義太夫節の創始者と、それを芸術の域にまで押し上げた名人が、数百年の時を越えて、いま、邂逅していることに、わたしはひどく感動した。
清八は、伊勢参りの珍道中―狐に化かされたこと、人を騙して酒をくすねたこと、インチキ見世物小屋で金をもぎ取られたことなど―を、仕方話で熱演している。それを、あんつる先生が、「うん、うん。おや、まあ」と大げさに相槌をうちながら、やさしく聞いてやっている。喜六の口は、話すよりも食べるほうに忙しい。 持ち前の大きな口で、片っ端から料理を平らげ、しきりに舌鼓をうっている。
春昇師は、腕を組み、虫の音、波の音、櫓櫂(ろかい)の軋む音、風が木々を揺らす音に聴き入っているようだ。しきりに目を細めて、膝の上で拍子を取ったり、頷いておられるところを見ると、名人の耳には、それらの音が〈天然の音曲〉に聴こえているらしい。横では、八千代師が、酒を注いでやったり、椀を並べてやったり、女房さながらに甲斐甲斐しく、世話を焼いている。
景清さんは、紅い盃を手に持ち、酒を重ねながら、そんな、みなの姿を静かに見つめている。どうやら悪い酒ではなさそうだ。


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