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朝靄の道行文:木ノ下 裕一(木ノ下歌舞伎 主宰) 絵:ヤマガミ ユキヒロ(現代美術家)

2014 05 04

どれほど時間が経っただろう。夜空のてっぺんにあった夏の月が、もう西に傾いている。宴もそろそろお開きという頃になって、八千代のお師匠っさんがおもむろに口を開いた。
「ちょっと舞わしてもろて、よろしおすやろか…」
驚いたは我々の方だ。芸妓とはわけがちがう。祇園町をとり仕切る大師匠、名人・八千代師の舞を肴に一杯やるなんぞ、どんな酒でも畏れ多くて、裸足で逃げ出すだろう。
「そいつぁ、勿体ないほどの御趣向だけど、お師匠っさん、ここは舟ん中だよ。ほんとうに、大丈夫かい?」
身を労わるように、そうやさしく返したのはあんつる先生。
「へえ、心配おへん。あんまり風景(ここ)が美しいよってなぁ、舞いとうなったんえぇ」

わかるような気がする。祇園町の井上八千代ともなれば、どこでもおいそれとは舞わぬものだろう。しかし、興が乗れば、芸惜しみはせず、どこでもひとさし舞うのも、また井上八千代なのだ。夜の明けはじめた大沢池は、あたり一面、朝靄に包まれて、神秘に満ち、空は黄金色に輝き、筆でさっと描いたような純白の雲が二、三本、ゆらゆらと泳いでいる。山々は深い緑の色を取り戻しつつあり、遠くでは水鳥(みずどり)が啼く。とても、この世の景色とは思えない。その中で、己の芸を披露したい。別の言い方をすれば、畏怖を抱くほどの大自然に向かって己の舞を奉納したい、と切に思ったのだろう。その気持ちが本当に痛いほどよくわかるのは、同じ芸の虫である山城のお師匠っさんだった。
「よぉうわかります。芸から身を引いたわたしには、それがしとうても、できまへん。お師匠っはん、わたしの分まで、せえだい舞うておくなはれ」
つられて、隣の近松先生が
「しかと拝見つかまつる」
と一礼し居ずまいを正した。
感動屋のあんつる先生は、芸の虫たちの〈心〉を想い、目を真っ赤にして、泣いている。
さっきまで腕を枕に高鼾(たかいびき)をかいていた喜六清八も、ただならぬ気配に目を覚まし、眠気まなこをこすりながら顔を見合わせている。

もはや誰にも止める理由はない。皆々、手早く膳や酒器を片付け、舟中にほんの二畳ほど、舞えるだけの場所をこしらえ、その両端に、燭台を立てた。
八千代師は、静々と歩み出し、舞台中央に一度座ると、皆々の顔をゆっくり見渡してから、深々と一礼した。少し離れたところに富崎春昇師が三味線を抱えて座っている。八千代師の呼吸をはかるように、春昇師がひと撥(ばち)おろした。「しゃん」という力強い絃の音が水面に木霊し、やがて唄になった。

〈釣の閑(いとま)も波の上 霞み渡りて沖行くや 海士の小舟のほのぼのと…〉

唄い出しを聴いて、驚いた。驚いたのはこの曲が八千代師の十八番だったからではない。あわてて隣の景清さんに声をかける。
「ね、景清さん!八島ですよ、『長刀八島』、ね」
それをうけて景清さんは、少し目を見開いた。
夜半のうちは気がつかなかったが、立ち上がった八千代師の黒紋付きの裾には、北斎風の波模様が描かれている。腰をどっしり落とした構えは、波間に揺れる舟の中であっても微動だにせず、地に根を張っているようだ。

〈西行法師のなげけとて 月やはものを思はする〉

死者の菩提を弔うような、いや、死者の声に耳を傾ける無上のやさしさを持った、清らかな舞。観る者の仏心が自然に呼び覚まされるような舞。思わず手を合わせたくなる。八千代師は、よく、「京舞は、お腹(なか)どす」とおっしゃるが、その意は何も、腰を落とせというような技術的な極意だけではないだろう。どんな舞でもそこに腹(肚)、すなわち心なくては舞の世界は体現できぬという、技と心が融合する極地のことを云わんとしているのだということに今更ながら気がついた。

舞の前段が終り、三味線の合方になる。ここでは小道具に長刀を持ち勇壮に舞うのであるが、今日は春昇師愛用の杖を借りて、長刀の代わりとした。春昇師の合方もまた見事だ。三味の一音一音が粒立って、玉と飛び散る水飛沫のように聴こえる。

〈また修羅道の鬨(とき)の声 矢叫びの音震動して けふの修羅の敵(かたき)  は誰(た)そ〉

八千代師の長刀がトンと地を突き、 すっ、すっ、と大きく二足進む。いよいよ戦がはじまるのだ。

〈思いぞ出(いづ)る壇の浦の〉

八千代師が右から左へ、ゆっくり、景色を眺めるように遠く目線を移動させる。ここが壇ノ浦なのだ。

〈その船軍(ふないくさ)今は早 閻浮(えんぶ)に帰へる生死(いきしに)の〉

八千代師が扇で横一文字に線をひけば、そこには地平線が浮かび上がる。後ろを振り向けば、山があらわれる。くるりと旋回すれば、瀬戸内海の潮の渦が生まれる。たちまちに壇ノ浦の景色が見事に浮かび上がった。

〈海山一同震動して〉

大きく足拍子を二つ踏んだ。舟が揺れて、振動がこちらにも伝わる。その緊張感たるや。景清さんが、一つ大きな咳払いをして、背筋を伸ばした。

〈船よりは鬨の声 陸には浪の楯 月に白むは剣の光 潮に映るは兜の星の影 水や空 空行くもまた雲の波の 打合ひ 刺し違ふる 船軍の駆引〉

八千代師が長刀と扇を持ち、戦の情景を克明に描写していく。感情を表にはけっして出さず、長刀と扇の兜を手に、戦のありさまを直線的な振りで表現していく。表情一つ変えない、淡々としたその姿ゆえに、一層、〈戦の無情さ〉が強調される。殺戮を繰り返す修羅場。そしてその人間の愚行すら、大きく包み込む、自然。海、月の光、雲、壮大な宇宙―。


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