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FEATURE

特集

KYOTOGRAPHIEにおける〈まなざし〉の諸相
京都グラフィー レビュー 寄稿:林田新

2013 04 29

いうまでもなくこの言葉は、写真を意味する仏語であるPHOTOGRAPHIEのPHOTOという接頭語とKYOTOを掛けたものである。そもそも、PHOTOGRAPHIEは、PHOTO(=光)とGRAPHIE(=描くこと)という2つの語からなる。ゆえに、KYOTOGRAPHIEという言葉は、京都で開催される写真の催しという意味のみならず、京都を描いたイメージ/京都によって描かれたイメージをも含意するのである。実際、京都ほど頻繁に写真にとられてきた都市も珍しいだろう。筆者が会場を巡っていた際には、数多くの国内外からの観光客とすれ違った。彼/彼女らはみな大小様々なカメラを手にしており、それをあちこちに向けてシャッターを切っていた。そうした膨大な数の京都にまつわる視覚的イメージ(KYOTOGRAPHIE?)は、個人の思い出として撮影された私的なもののみならず、広告などに用いられる公的なものも含めて様々な形で流通し、人々の京都に対する〈京都的〉、〈京都っぽさ〉という心理的なイメージを形成してきた。

ジョン・アーリは、ミシェル・フーコーの〈まなざし〉という概念を援用し、観光という現象がいかなる構造にあるのかを論じている。ここでいう〈まなざし〉とは、単なる身体的な見るという行為ではなく、社会的に構成され体系化されたまなざしを指す。アーリいわく、 「〔観光という〕この体験の一部は、日常から離れた異なる景色、風景、町並みなどにたいしてまなざしもしくは視線を投げかけること」である(※1)。「観光のまなざし」は、観光地を自らが属する日常空間と断絶したものとして対象化し、可視的世界の客体として理解する。アーリが〈まなざし〉という言葉によって観光を特徴付けているように、近代のツーリズムが視覚中心主義の傾向を色濃くしていくことの背景の一つには写真と観光との親密な結びつきがある。写真と観光について、アーリは次のように述べている(※2)。

写真映像は、これからまなざしを向けようとしている場所についての予知あるいは白昼夢を構成してくれる。出かければ、まなざしを向けたものの映像を記録する。また、フィルム上に、ある場所を捉えるために行き先を決めることもある。写真映像を手に入れるということは、ツーリストとしての体験を作り上げていくことにもなっている。また、私たちがもつ土地の記憶は、写真映像と、その映像を他人に説明しているときの、それにまつわる言語的なテクストを通して、まず構成されているのである。観光のまなざしは、このように、どうしようもなく、写真映像の迅速な循環というものをそこに含み持っているのである。

※1)ジョン・アーリ『観光のまなざし−−現代社会におけるレジャーと旅行』加太宏邦訳、法政大学出版局、1995年、p. 2。

※2)同上書、p. 249。

おとこと女 #33 (1960) © 細江英公

おとこと女 #33 (1960) © 細江英公

© 高谷史郎

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©  Naoki

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