05, May 2014

京都の女性運動と「文化」 第1回(全3回):序論――女のスペース〈シャンバラ〉の活動から

村上 潔(女性史研究者)

世の中には、知られていてもよいのに知られていないことがたくさんある。私が研究している、現代の――つまり、そう昔のことではないのにもかかわらず、ということなのだが――女性思想・女性運動もそうしたもののひとつだ。

ふつうの人は、①現代の京都に成熟した女性運動があったことを知らない。そして、②その女性運動が、街のなかで「文化」を生み出し、定着させる役割を担っていたことを知らない。

まず①について。これは、なにもこのジャンルに限った話ではないが、いわゆる東京中心主義というのがある。東京の目立った組織や、そのキーパーソンの活躍が絶えず「正史」として語られ、それによって、ほかの地域の活動が「なかった」ものにされてしまう構造である。女性運動、特に今回取り上げるウーマンリブ運動でいえば、〈リブ新宿センター〉という場所と田中美津という人物が、その「正史」の代表だ。いわゆるフェミニズム業界の人でも、リブといえばそれしか知らない人は多いはずだ。

そして②の問題。これはやっかいで、まず、日本の女性運動の歴史においては、『青鞜』のような文化そのものの運動成果がある。なので、女性運動がなにかしら「文化」と密接な関係をもっていることは、誰でもわかる。しかし、ではそのあと何が知られているか、という話になると、まず出てこないだろう。むしろ、政治的な女性運動――特にリブのような急進的な運動――は、「文化」を否定・拒否するかのような印象をもっている人が多いと思う。つまり、大衆的な文化(映画・小説・歌謡曲など)が内包する無自覚的性差別構造や、またハイ・アートの世界の構造そのものの(男性中心主義的)権威性は、女性運動からすれば批判・攻撃すべき対象であるゆえ、そうした関係が「女性運動は文化と無縁」という印象につながることは想定できる。また、(リブを「輩出」した)全共闘運動においては、そうした反権威的・急進的姿勢がいわゆる「アングラ」文化に接近・接続していったわけだが、ここには女性の存在が――特定の「アングラの女王」的役割を担った女性たちを除けば――見いだせないことも、現代の女性運動と文化を切り離して認識させる一つの要因となっている。

そこでこの小稿では、京都の女性運動、さらに限定してリブ運動における「文化」実践の一端――本当にごく一端にすぎないが――を紹介しようと思う。


村上 潔 MURAKAMI Kiyoshi
村上 潔 MURAKAMI Kiyoshi

1976年、横浜市生まれ。
2002年から2005年まで、『remix』(アウトバーン)に、映画・音楽に関する記事を寄稿。その後、『音の力 〈ストリート〉占拠編』(インパクト出版会)、『VOL』(以文社)などに寄稿。
2009年、立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程修了。現在、立命館大学衣笠総合研究機構准教授(特別招聘研究教員)、ならびに神戸市外国語大学非常勤講師。専門は、現代女性思想=運動史。
著書に『主婦と労働のもつれ――その争点と運動』(洛北出版、2012年)など。現在の主たる研究テーマは、「〈新日窒労組主婦の会〉の歩みの記録とその女性運動史的分析」。定期的に水俣に通って調査を進めている。

村上 潔 紹介ページ
(「生存学」創成拠点 arsvi.com WEBサイト内)
http://www.arsvi.com/w/mk02.htm


京都のリブ運動でもっとも重要な存在が、女のスペース〈シャンバラ〉である。〈シャンバラ〉は、「円町市場」の地下にあったスペースで、最初は1976年4月頃、ひとりの女性が「経済的な自立」と「人間的なつながりが持てるスぺースが欲しくて」(『あんなぁへ』No.4: 2)、「スナック・喫茶」として開店した。当初は圧倒的に男の客が多かったが、開店から一年後、女だけのソフトボールチームを作る呼びかけをしたのがきっかけとなり、「もっと女同志(ママ)で何か出来ることはないだろうか、もっと沢山の女たちと出会って、話し合いたいと思い始めるようになった。[…]そして、それ以後、「シャンバラ」は女たちに向けられたスペースとして出発し始めた」(『あんなぁへ』No.4: 3)。

そして4人の女たちが中心となって、店を大改装するなどリニューアルに向け動き始める。1978年3月にはスタッフが7人となり、「①あらゆる女たちに開かれた場所②出会いの場所であり女同志(ママ)のつながりを広げたい③限られた女の情報を女自身の手で交換しあう場所⑤(ママ)その上で店として経営もうまくいくように」(『あんなぁへ』No.4: 1)と、スペースの性格が定義づけられた。

ちなみに店の大改装の大工仕事は、すべて女たちが自力で、共同で行なった。いかつい大きなバーカウンターも、「強力の女たちが寄ってたかってみる間に崩して」しまい、地下の暗い印象を払拭しようと、「階段の壁にのびやかにたくましい女たちのいま空へ飛ぼうとしている等身大の絵が描かれ、新しくつくった丸テーブルにはもちよられた鮮紅のインド更紗がかけられて、銅のすかし彫りのランプシェードがかけてあったのを銀色の笠にかえた白熱灯の下でぱっと輝いた」(『あんなぁへ』No.4: 4)。まさにDIYで、空間を「女たちのコミュニケーションスペース」(『あんなぁへ』No.4: 4)に仕立て上げたのである。


その〈シャンバラ〉は、様々なかたちで「文化」空間としての機能をもった。それは、直径50cmの店の「大看板」に書かれた紹介文から端的にわかる。いわく、「女による女のスペース=たべもの、のみもの(コーヒー、さけetc.)うた、本、ミニコミいろいろ。出会いがあり、おしゃべりがある。男は断わるときもあるよ」(『あんなぁへ』No.4: 4)。

まず注目すべきは、「インフォショップ」としての機能である。もちろん当時はそんな言葉は知られておらず、当事者の言葉を借りれば、「女の情報センター」(『あんなぁへ』No.4: 4)という機能だ。〈シャンバラ〉には、全国各地の女性運動体(リブだけではない)から、ミニコミ、機関紙などが日常的に送られてくる。それらは店内で販売された。加えて、「アメリカの女だけで作っているレコード会社のレコードの販売」(『スペース通信』第1号: 2)も行なっていた(※1)。

これとあわせて、〈シャンバラ〉は、図書館としての機能ももった。〈シャンバラ〉には「シャンバラシスターズ」という会員制度があり(※2)、その会費から費用を捻出して、女の本を買い揃えていた。それと寄贈された本をあわせて、「シャンバラシスターズ文庫」と称し、シスターズは本を1週間借りることができた(『あんなぁへ』No.3: 7)(※3)。

〈シャンバラ〉は、活字メディアを扱うだけでなく、発信もした。1978年3月1日に機関紙『あんなぁへ』を創刊。ほぼ隔月発行、B4版、4ページ~10ページ、すべて手書き。内容は、論説・活動報告・告知・エッセー、それに今後の企画への協力要請などで、イラストをふんだんに使った充実した紙面構成だった。『あんなぁへ』の刊行意図はこのように説明されている。

女が自立し、自分の人生をえらんで歩こうとするときに、必要な、ほんとに役にたつ情報なんてほとんど手に入らないし、自分のことばを使って表現していくメディアもほとんどないといっていい。
自分の表現手段として、女の手で女の役にたつ、女のうごきを生き生きと伝える情報誌を作ろう。新聞というメディアをとおして、女の文化創造の一端をになっていくことにもつながると思う。役にたてる情報というのも、なるべく今、京都で暮している女たちに直接つながっていけるものにしたい。というようなわけで「あんなぁへ」が生まれました。(『あんなぁへ』No.4: 7)

『あんなぁへ』は、第1期〈シャンバラ〉が1979年2月末に閉店するのに伴い、同年2月14日発行のNo.6で終刊。その後、同じ場所での第2期〈シャンバラ〉の開店に伴い、1979年5月1日に『スペース通信』と体裁を改めて刊行が再開された。『スペース通信』は月刊で、3号からは送料込み1部100円、定期購読1年1,200円と値段がつき、同じく3号から広告欄が設けられた。同紙は1980年4月の11号まで刊行されたのち、翌5月からは『ミズ通信』と改名し、継続して刊行され、1981年6月の21号までは存在が確認されている。

※1)レズビアン・ソングとして機関紙に紹介された、〈OLIVIA RECORDS〉の「Don't Pray for me」(『あんなぁへ』No.5: 5)がその一つと推定される。また、「アメリカの女たちのスタジオで作られたオリジナルLP2000円」(『スペース通信』第3号: 4)という記述もある。

※2)会費は月500円。シスターズになると、特典の一つとして機関紙(『あんなぁへ』→『スペース通信』→『ミズ通信』)が送付される。また、シスターズは、〈シャンバラ〉で企画を開催できる権利をもつ。

※3)1979年8月の時点では、「シャンバラ文庫」とされ、200冊近くの本があり、貸し出しは「期限10日1回1冊」となっている(『スペース通信』第4号: 4)。


左図:『あんなぁへ』創刊号(1978/03/01)p.6(裏表紙) 右図:『あんなぁへ』No.4(1978/09/19)p.1(表紙)

左図:『あんなぁへ』創刊号(1978/03/01)p.6(裏表紙)
右図:『あんなぁへ』No.4(1978/09/19)p.1(表紙)

左図:『スペース通信』第5号(1979/09/01)p.1(表紙) 右図:『スペース通信』第5号(1979/09/01)p.4(裏表紙)

左図:『スペース通信』第5号(1979/09/01)p.1(表紙)
右図:『スペース通信』第5号(1979/09/01)p.4(裏表紙)


そして〈シャンバラ〉には、メディアとしての機能だけでなく、「表現の場」としての一面があった。スタッフの一人は、1978年9月の時点で、「女たちの表現の場を、つくってゆきたいのだ」と述べ、「シャンバラが女たちの表現の場として必要なスペースにとらえられるよう」(『あんなぁへ』No.4: 9)になることを期待している。

〈シャンバラ〉で行なわれていた「表現」に関する活動としては、《FFG(フェミニスト・フィルム・グループ)》なる「映像を通して、女を表現したいグループ」(『スペース通信』第3号: 4)の存在がまず挙げられる。このグループは、1979年8月の《女たちの映画キャラバン》に向けた8ミリ映画の自主制作を進めていた。ほかでは文学創作のグループが月1回活動していた(『スペース通信』第3号: 4)。そしてひときわおもしろいのは、「パーティ」を「表現」として行なっていた点だ。1978年の4月、シャンバラのスタッフたちが、「女が、自分を、表現してゆくこと」を模索し、「その場としてシャンバラを、つかいたいと考えていた」とき、「その場にいるみんなが[…]いっしょに歌いだしたり、踊ったりできるような」仕掛けはないかと頭を悩ませていた。そこで出てきたのが、「あっ、そうだっ。パーティがいいよ」(『あんなぁへ』No.6: 5)というアイデアだった。そこで毎月1度、第3土曜日の夜に《ウィークエンドパーティ》が催されるようになる。また、これと関連した愉快な企画が、《ディスコ・ババロア》だ。これは、毎月第1土曜日の夜に開催された「30才未満おことわり」(『スペース通信』第3号: 4)の、「中高年ディスコパーティ」である。ネーミングの由来は、「世間の作ったというより、大人の女に劣等感を抱く男共のつくったババアの呼び名をうけとめて、陽気にしたたかに投げ返す心意気で、その名もディスコ・ババロアとは、これが笑わずに居られようか」(『スペース通信』第3号: 2)というもの。どうやら〈シャンバラ〉スタッフ/シスターズでは、ダンス志向(?)が強かったようである。

講座ものとしては、《FEC(フェミニスト・イングリッシュ・クラス)》、ヨガクラス、ギタークラスが定期的に行なわれており、芸術系の企画では、レコードコンサートとクロッキー会が存在した。それ以外では、《レズビアン・ミーティング》が定期的に行なわれていた。
また、〈シャンバラ〉では、女性シンガーのコンサート(「ミニ・コンサート」とも称される)を積極的に開催していた。

出演者として、

  • 青木ともこ・てらだまりこ(1978年5月9日)
  • 青木ともこ(1978年7月)
  • てらだまりこ(1979年1月中頃)
  • 中山ラビ(1979年2月17日)
  • てらだまりこ(1979年6月23日)
  • てらだまりこ・沢田みのり他(1979年9月29日)
  • 小林まり子〔小林万里子〕(1980年6月7日)
  • 小林まり子(1981年2月7日)

といった名前が確認できる。


〈シャンバラ〉のスタッフたちは、スペースの外でも積極的な文化実践を行なっていた。特に、以下の3つの企画にはかなり力を入れていたことが、機関紙の特集記事がから窺える。

①1977年11月28日:《女のまつり'77》(於:京都大学時計台ホール)

ゲストは中山ラビ、〈ドテカボ一座〉(※4)。〈ドテカボ一座〉の公演を観て感動したスタッフが、ぜひとも京都公演を実現させたいとの熱意から始めた企画。たった4人のスタッフからスタートし、すべてが素人の手作り。自分たちで上映用のスライドも作成した。準備の途中で、「ベニヤ板とか、紙とか、自分たちでやっとこさ集めて一日がかりでつくった、たてかんばんがこわされてしまった。それも3度も…! 2度めはバラバラ。真夜中にみんな半泣きでさがしまわった」(『あんなぁへ』No.4: 5)という困難に見舞われつつも、なんとかやりとげる。

②1979年8月19・20日:《女たちの映画キャラバン》映画『女ならやってみな!』上映会(於:京都教育文化センター)

1978年11月に東京で開催された《女たちの映画祭》で上映され、高評価を受けたデンマーク映画『女ならやってみな!』を京都で上映しようという実行委員会が1979年2月に立ち上げられた(『あんなぁへ』No.6: 7)。この企画は、仙台から広島の呉まで西進する《女たちの映画キャラバン》の一環として実現することとなった。機関紙上に結果報告が見当たらないので、実施状況は不明。

③1979年11月8日:《女の詩[うた]コンサート――ときはなて…自分を》(於:同志社大学学生会館ホール)

「京都中の女たちにオリジナルの詩をつのり、それに曲をつけてできた歌を、女たちが歌い、演奏し、また朗読したりして、自分自身を表現することによって、自らを解放しよう、という一つの試みとして」(『スペース通信』第7号: 1)企画されたもの。45人の女たちから詩が寄稿され、作曲・編曲家の吉岡しげ美が曲をつけた。出演者は、寺田まり子・沢田みのり・橋本信子・小堀恵美子、ゲストに青木とも子・中山ラビ。開催報告には、「女たちが自分自身の手によって何かを創造し、表現していこうとするこの試みは、まさに「場の」提供や、自分自身の解放のみならず、他者への共感、連帯へとつながり、輪を広げていくイベントとしての重要性を秘めている」と評価されている。

※4)〈ドテカボ一座〉は、〈リブ新宿センター〉のメンバーを中心に組織された劇団。自らの公演形態を、“ミュージカル”ならぬ“ミューズカル”と称する。『女の解放』が傑作として名高い。


このように、〈シャンバラ〉のスタッフ/シスターズたちは、自ら作り上げた〈シャンバラ〉という場(スペース)において、さらにはその外でも、女たちとつながり、新たな動きを創造したいという切実な思いと明確な問題意識のもと、広範な「文化」活動を精力的に展開していた。そこには、女性解放の道筋を見据えた真摯な眼差しと、動き出さずにはいられない熱い衝動の両方を感じ取ることができる。これこそが、たんなる政治的な権力闘争に収斂されないリブ運動のダイナミズムといえるだろう。もちろん、〈シャンバラ〉を拠点として活動していた女たちは、多くの政治的課題に精力的に取り組んでいた(※5)。そのうえでの「文化」実践であったのである。注意すべきなのは、通常価値を認められやすい運動の「理論化」や、「戦略」構築ではなく、それ以前に、女たちはやむにやまれずこのような「文化」実践を必要としていたことだ。それは、社会のなかだけでなく、運動のなかでも、語る言葉や語る主体としての立ち位置を与えられてこなかった女たちであるがゆえの道程であった。

さて、本稿はひとまずここで区切りとしたい。あらかじめ冒頭でお断りしたとおり、ここではまだ、京都のリブ運動における「文化」実践の「ごく一端」しか紹介できていない。本来ならこのあと、〈シャンバラ〉のその後(※6)、〈シャンバラ〉以後の京都のリブ運動(※7)、京都の女性運動がもつ地域的特色など、述べなくてはいけないことは山ほどある。そうした内容については、あと2回の連載においてできる限り触れていきたい。

※5)〈シャンバラ〉関係者たちの「労働」問題へのアプローチを分析した論文として、村上潔「「男女平等」を拒否する「女解放」運動の歴史的意義――「男女雇用平等法」に反対した京都のリブ運動の実践と主張から」(『Core Ethics』Vol.5: 327-338、2009年)。

※6)〈シャンバラ〉は1982年5月に実質的な「解散」に至るが、その過程と内実は非常に複雑である。公刊されている書籍では、溝口明代・佐伯洋子・三木草子編『資料 日本ウーマン・リブ史Ⅲ――1975~1982』(松香堂書店、1995年)で、〈シャンバラ〉に関す資料を数編読むことができる。

※7)〈シャンバラ〉以後の京都のリブ運動に関する証言記録として、滝川マリ・冬木花衣・ぶんた(聞き手=村上潔)「(インタビュー)80年代京都におけるリブ運動の模索――〈とおからじ舎〉へ、そして、それから。」(『PACE』Vol.3: 36-49、2007年)。


京都の女性運動と「文化」 第1回(全3回):序論――女のスペース〈シャンバラ〉の活動から

Category: Column





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