08, Jul 2014

京都の女性運動と「文化」 第2回(全3回)
――〈シャンバラ〉以後、1980年代のリブ運動

村上 潔(女性史研究者)

前回は、女のスペース〈シャンバラ〉が、1970年代後半、京都の女性運動の「文化」発信/集積地として機能していたことを書いた(※1)。今回は、〈シャンバラ〉の「その後」を追っていきたい。

〈シャンバラ〉は、1982年5月に終焉を迎える。それは残念ながら、不幸な終わりかたであった。簡潔にいえば、店を立ち上げた当人であり、賃貸契約と立ち上げ時の借金の名義人であるMさん(ならびにMさんを支持する2名のスタッフ)と、その他のスタッフたちとの間で生じた確執がすべてを終わらせてしまった。きっかけは、Mさんが大工・室内装飾の仕事に専念するため京都を離れ、運営部を抜ける意思をスタッフたちにもちかけたことだった。スタッフ側はその行動方針を運動論的に問題視し、両者の対立が深まっていった。Mさんは、スタッフ側に対して賃貸契約と借金の名義変更をしてほしいと提案したが、それに関する具体的な議論はなされなかった。そして、1982年5月の第4回シスターズ総会で、突如、スタッフ全員総辞職、シスターズ解散、〈シャンバラ〉閉店、という結論が出された。

Mさんとその支援者によるこの動向の総括は、同年12月に発行された冊子(シャンバラの閉じ方を考える会『女のスペースって何だったの?――シャンバラ閉店てんまつ記』〔1982年〕)によって知ることができる(※2)。そこでは、スタッフ側の行為・スタンスは一貫して「反民主的・全体主義的」なものだったと批判されている。
ではスタッフ側はどう考えていたのか。元スタッフの証言があるので確認してみたい。

抽象的に言ってしまえば、その対立は、女の解放をめぐって、2つの思想性・方向性が顕著にあらわれた結果だったと思います。《個人の自己実現》と《女たちの共同性》。この2つが、運動にとって別のベクトルだとは思いませんが、私たちスタッフは、女たちの共同性を担保する《スペース》に強い愛着があったのです。そのときの私たちは、80年代に女たちが向かっていく方向性において「共同性」という側面が急速に失われ、《資本》が能力のある女たちを一本釣りしつつ、持ち上げ、利用しようとしていこうとする方向性に、警戒心を持っていたということもあります。80年代は女の時代ともてはやされ、女の自己実現はその頃のキーワードでもありました。(※3

※1)〈シャンバラ〉があった京都市中京区の円丸市場は、2014年5月末をもって65年の歴史に幕を閉じた。

※2)そのうち数編は、溝口明代・佐伯洋子・三木草子編『資料 日本ウーマン・リブ史Ⅲ――1975~1982』(松香堂書店、1995年)で読むことができる。

※3)栄井香代子・竹村正人・村上潔『「平成18年度京都市男女共同参画講座受講生参考資料(女性解放運動関係)収集調査」報告書』(NPO法人京都人権啓発センター・ネットからすま、2007年): 10-11


村上 潔 MURAKAMI Kiyoshi
村上 潔 MURAKAMI Kiyoshi

1976年、横浜市生まれ。
2002年から2005年まで、『remix』(アウトバーン)に、映画・音楽に関する記事を寄稿。その後、『音の力 〈ストリート〉占拠編』(インパクト出版会)、『VOL』(以文社)などに寄稿。
2009年、立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程修了。現在、立命館大学衣笠総合研究機構准教授(特別招聘研究教員)、ならびに神戸市外国語大学非常勤講師。専門は、現代女性思想=運動史。
著書に『主婦と労働のもつれ――その争点と運動』(洛北出版、2012年)など。現在の主たる研究テーマは、「〈新日窒労組主婦の会〉の歩みの記録とその女性運動史的分析」。定期的に水俣に通って調査を進めている。

村上 潔 紹介ページ
(「生存学」創成拠点 arsvi.com WEBサイト内)
http://www.arsvi.com/w/mk02.htm

AMeeT Column
京都の女性運動と「文化」 第1回(全3回):
序論――女のスペース〈シャンバラ〉の活動から
http://www.ameet.jp/column/
column_20140505/#page_tabs=0


これを読むと、〈シャンバラ〉の閉店が、たんなる内輪もめや金銭問題ではないことがわかるだろう。女の自己実現と共同性の相克。女性運動において、抜き差しならない、普遍的な課題がここにはある。この閉店をめぐる対立・確執は、当事者たちにとっては深い心の傷となったであろうが、広い目で見れば、女たちを取り巻く時代状況と、そのなかで女たちの自律的な空間を作っていくことの意義と困難を再確認させる出来事となった。

さて、では「スペース」に拘った女たちのその後を見ていこう。スタッフとして〈シャンバラ〉に深く関わっていた者、〈シャンバラ〉に出入りしていた者たち計6人によって、1984年4月1日、〈とおからじ舎〉というリブ・グループが結成され、四条河原町近くのマンションの一室に共有スペースをオープンさせる。

とおからじ舎は、こんな場です。
とおからじ舎では、女解放の理論化と運動の方向づけの土台づくりを、2年がかりでめざします。
私たちは、それぞれがかかわってきた女たちの運動をふりかえるなかで、全体を見渡す視野が欠けていたこと、とりわけ、政治、権力、組織、軍事等の問題を、ほとんど考えてこなかったことを痛感しました。男たちの『闘争』の批判や点検も含めて、わたしたちの運動を模索していくつもりです。
と同時に、映画の自主上映、ユニークなイベント等を企画し、世の中の動きにも敏感に反応し、活動していくつもりです。
とおからじ舎は、はりきり女たちの拠点です。(※4

※4)とおからじ舎『あさってに虹を駆ける』(とおからじ舎、1986年): 3


〈とおからじ舎〉のスペースは、6人の女たち(のち2人が加わる)の共同出資、合議、共同運営によって成り立っていた。ミーティングは週1回。会員制はとらず、企画ごとに有志のメンバーが参加した。スペース内では粉せっけんや有機農法のお茶などを販売していた。また、女を中心としたグループに限り、会合に使用することができ、メンバーの知人に限り、宿泊することもできた。原則、月曜~金曜の19時~22時のあいだオープンし、メンバーが交替で当番として常駐していた。
このスペースの確保について、中心メンバーだった滝川マリはこのように語っている。

スペースがないと、どこに集まるって話じゃない? リブの立場からすれば……、リブの場合は共同生活に入っちゃうわけじゃない。あれはなかなか大変なのよ。私も大学の時してたけど。そういう動きが終わって、でも共同のスペースがないと、広がらない、共有化できない、っていうのがあったから、ある意味当然のごとく、スペースみたいなのは作ろう、っていうのはあったのね。(※5

そして、〈シャンバラ〉のときの「教訓」からスペース運営に不安はなかったか、という問いには、以下のように回答している。

〈シャンバラ〉はお店だったからね。こっちは違うから、そういう心配はなかったけど。ただ、みんな働いてたから、夜しか集まれなかったり、ハードはハードだった。当番制でローテーション組んで居るようにして。そこに来て欲しいっていうかたちでは言っていたし、知り合いに「おいで」って言ったりしてたから。で、学習会みたいなのやり始めたり。(滝川・冬木・ぶんた 2007: 39)

※5)滝川マリ・冬木花衣・ぶんた(聞き手=村上潔)「(インタビュー)80年代京都におけるリブ運動の模索――〈とおからじ舎〉へ、そして、それから。」(『PACE』Vol.3: 36-49、2007年): 39


スペース運営はメンバーにとって負担ではあったが、そのなかでリブ運動を総括する学習会のような「女解放の理論化と運動の方向づけ」の取り組みを地道に行なっていた。
また、このスペースの外でも、〈とおからじ舎〉は、精力的な活動を展開した。

①1984年9月22日・23日:西ドイツ映画『ドイツ 青ざめた母』上映会(於:社会教育総合センター)

戦中・戦後のドイツで困難な状況のなか生き抜いてきた一人の女性の姿を描いた映画作品(東京〈岩波ホール〉で上映された)の自主上映会を、京都で開催。情宣のポスター貼りやチラシ撒きで、京都の街じゅうを駆け回った。2日間で約650人を動員。福井・広島・金沢からの来客もあった。

②1985年6月2日:ビデオ『キャリーグリンナムホーム』『完黙』上映会(於:京都府部落解放センター)

実践的な運動のありかたを考えるのに参考となる映像作品の上映会。

③1985年7月:「国連婦人の10年」ナイロビ世界会議NGOフォーラムへの参加

メンバーの一人、井上はねこが同フォーラムに参加し、ワークショップを主催した(※6)。これに際して、〈とおからじ舎〉の取り組みと問題意識を国内の女たちに知ってもらうためのパンフレット(とおからじ舎『世界の闘う女たちへ――'85年夏 KENYA NAIROBI 国際婦人年世界会議にむけて』〔1985年〕*写真2・3)も作成した(※7)。

④1985年9月21日~23日:「女のからだから合宿」(於:東京・早稲田奉仕園)での分科会企画

東京の〈82優生保護法改悪阻止連絡会〉(略称「ソシレン」)の呼びかけによって2泊3日で開催された、「女のからだから合宿」(このときが初回。現在まで10回開催されている)の1日目に、分科会「女解放のあさって」を主催。メンバー全員が大きな刺激を受け、「リブはこれからが第2期よ!」(とおからじ舎 1986: 125)という興奮を共有した。

⑤1985年11月23日:「母子保健法改悪阻止全国同時大行動・京都編」(於:京都府部落解放センター)

④の合宿で、同年中に国会に上程される母子保健法の改悪案に反対する全国同時大行動を行なうことが提起され、札幌・仙台・東京・名古屋・京都・大阪で連携した企画を行なうことになった。その京都編を〈とおからじ舎〉が主催した。12月15日にも追加で勉強会を開催。

※6)井上本人によるレポートが、とおからじ舎(1986)に収録されている。

※7)〈とおからじ舎〉は、「国際婦人年」(1975年)以降の「国連婦人の10年」における政府の女性政策(結果的には1985年の「男女雇用機会均等法」制定につながる)と、それに積極的にコミットしようとする女性運動を一貫して批判した。このパンフレットにもその問題意識が反映されており、「私達は政府や経済界が隠している日本の現実の姿を広く伝えたいと考え、このパンフレットを作成した。ここにあるのは私達の日常であり闘いである」(とおからじ舎 1985: 3)と宣言されている。


写真1:とおからじ舎『あさってに虹を駆ける』(とおからじ舎、1986年)表紙

写真1:とおからじ舎『あさってに虹を駆ける』
(とおからじ舎、1986年)表紙

〈左図〉写真2:とおからじ舎『世界の闘う女たちへ――'85年夏 KENYA NAIROBI 国際婦人年世界会議にむけて』(1985年)表紙 〈右図〉写真3:とおからじ舎『世界の闘う女たちへ――'85年夏 KENYA NAIROBI 国際婦人年世界会議にむけて』(1985年)裏表紙 *〈とおからじ舎〉のロゴマーク

〈左図〉
写真2:とおからじ舎『世界の闘う女たちへ――'85年夏 KENYA NAIROBI
国際婦人年世界会議にむけて』(1985年)表紙

〈右図〉
写真3:とおからじ舎『世界の闘う女たちへ――'85年夏 KENYA NAIROBI
国際婦人年世界会議にむけて』(1985年)裏表紙 *〈とおからじ舎〉のロゴマーク


以上が主なスペース外での活動となる。これ以外に、〈とおからじ舎〉は、ニュースレター『とおからじ舎便り』の発行、ロゴマーク(写真3)の作成、そして自費出版の本(とおからじ舎 1986*写真1)の発行といった対外的な発信活動を行なっていた。

〈とおからじ舎〉は、当初より、〈シャンバラ〉閉店の際に問題となった1980年代の個人主義的・自己実現的な女の解放路線を批判的に対象化し、70年代の初期リブの本質を取り戻す、という意識を強く持っていた。と同時に、日本のリブ運動の誕生から10年以上経った時点での、運動の総括・理論化も大きな課題として掲げていた。

注目すべきは、そうした方針のもとでもまったく自然に「文化」的な実践が行なわれていたことである。〈とおからじ舎〉の最初の大きな主催企画は①の映画上映会であったし、本の末尾には、小説作品(峰みやす「幼き人よ」)が掲載されている。井上はねこによる③のレポートも、旅行記としてもエッセイとしても読めるような、非常に軽快な文体で綴られている。また、ロゴマーク(写真3)も非常にクールだ。こうしたところに、軽やかに洗練された、ある意味「80年代的」なセンスが表れているのがおもしろい。

このように、〈とおからじ舎〉は、全国的にはリブ運動がすでに「終わった」状況にあった1980年代半ばにおいて、クラシックなリブという確固とした自己認識のもと、新たなセンスをもって多方面の活動を行なっていた。ここには〈シャンバラ〉の「遺産」もあるが、同時に〈シャンバラ〉の「限界」を乗り越えようという問題意識もあり、その双方が活動の原動力となっていたといえる。運動に対する冷静な(自己)批判と情熱とが、有機的に結合していたということだ。これは、京都の女性運動のクオリティの高さを証明する事例として知られておいてよいことだと思う。


さて、最後に〈とおからじ舎〉が抱えていた運動的課題を確認しておきたい。〈とおからじ舎〉には、〈シャンバラ〉で中心的な存在ではなかった若いメンバー(ぎりぎりリブに「間に合った」世代)が半数を占めていたが、彼女たちはリアルタイムのリブを直接知らないがゆえの悩みを抱えていた。本(とおからじ舎 1986)に収録されている「20代○○組による座談会」では、上の世代に対する遠慮や、やりたいことが見つからない不安、うまくものを言えない(表現できない)もどかしさ、が語られている。
座談会を終えて、メンバーの一人はこう吐露する。

私たちは自分を客観的にとらえること、同じ視線で他者をとらえることはできていない。「ここにいる女」「ただの女」からさえ出発できていないのだ。
リブの女たちが創ろうとした関係のあり方を、私たちはその出発点から、ふみつぶしていたのではないか。大きな思い違いを共通して持ってしまっていた私たち20代○○組だ。
私は今、30代りぼん組に対しての申しわけなさでいっぱいだ。彼女たちが創ろうとしてきたものの土台をふみつけにして、私たちは“よくわからない”と言いつづけたのだから。(とおからじ舎 1986: 46)

かなり厳しい自己批判である。「遅れてきた」世代ゆえの、リブに対するコンプレックスととることもできる。また、別のメンバーはこのように述べている。

とおからじ舎へ行くと、私の内部で積み上げかけていたコトバはまたバラバラに崩され、ふくらんでいたものがぺしゃんこになる。ごまかしなし、掛け値なしの私を要求され、私はうろたえ自信がなくなり、またしても恐怖にかられる。一瞬にして悟りをひらくようなわけにはいかないのである。観念ではなく、現実を変えるのだから。
とおからじ舎は、アビキョーカンのシュラバとなる。(とおからじ舎 1986: 50)

ここからは、ありのままの自分を、その本音をさらけ出すというリブ的なマナーは、若い世代には恐怖として、つまりある種の抑圧として認識されていたことがわかる。リブという運動に敬意を払い、自分もそこに入ろうとすればするほど、その高い――自ら高く設定してしまった――壁に跳ね返され、自分を見失うという現象がここで見いだされる。

もちろんこれは、上の世代のメンバーが抑圧的であったという単純なことではない。リブという運動に忠実であろうとすればするほど、(突き詰めるがゆえに)その向き合いかたのギャップが顕在化し、ひとつのグループ内で齟齬が生じてしまう。結果として、グループのなかで、見えない、現実の人間関係とは別次元の抑圧が醸成されてしまう。これは運動体が不可避に抱え込む普遍的な問題であり、言うまでもなく、当事者の努力で解決するのは非常に困難である。


こうした世代間のギャップがどこまで〈とおからじ舎〉全体の活動に影響していたのかはわからないが、1986年6月の本発行以降の〈とおからじ舎〉の活動は記録では確認できない。冬木花衣の証言によれば、〈とおからじ舎〉は、1987年の春にその活動を終える(滝川・冬木・ぶんた 2007: 41)。滝川マリは、その実態を以下のように語っている。

結局、私たちは〈シャンバラ〉の閉じ方に憤っていて、それが原動力だった部分もあるんだけど、そういう初期衝動が過ぎたあとに、どうするかっていうことだったと思う。個人的に目指すものを見つけた人もいたし、見つけられない人もいたし。そのへんが意識の上でばらばらになった、ってことかな。個別に運動の支援をしていたメンバーは、現場である東京に行っちゃって。スペースのために毎月少ない給料の中から払ってるのに、一人減り二人減り、じゃあ持続できないじゃない。となるともう閉じるしかないかな、ってなった。(滝川・冬木・ぶんた 2007: 41)

こうして〈とおからじ舎〉の活動は、実質3年間にとどまった。ここには〈シャンバラ〉のときとはまた違う「限界」があった。しかし、リブの女たちはこれで運動を、運動を構築する試みを、やめることはなかった。この「限界」をさらに乗り越えるべく、新たな活動を開始する。それは次回に紹介したい。そこでやっと、70年代後半から90年代という、運動の低迷・衰退期とみなされている時代のなかで、京都の女たちがどう活動してきたのか、その意味はどこにあるのか、それでも立ちはだかる「限界」はどこにあるのかを見定めることができるだろう。

〈とおからじ舎〉が1986年に出した本のタイトルは、『あさってに虹を駆ける』である。「あした」ではなく「あさって」。運動の道のりが遠く困難に満ちていることを表している。そして「架ける」ではなく「駆ける」。一気に問題を解決する夢のようなツールを期待するのではなく、自分たちの足で、自力で進むということだ。しかし、駆ける道のりは「虹」(空)である(写真1参照)。オプティミスティックで、ファンタジックだ。シビアな現状認識があるからこそ生まれる希望。彼女たちの活動スタイルをそのまま表しているように思える。
〈とおからじ舎〉を外から見た一人、ぶんたは、スペースとしての〈とおからじ舎〉をこう語っていた。

私は、〈とおからじ舎〉のスペース、一回だけ行ったの。すてきなスペースだったわ。みんながこう、力いっぱい維持してるっていうのがすごくよくわかって。でもあれは終わりかけの時だったけど。(滝川・冬木・ぶんた 2007: 43)


京都の女性運動と「文化」 第2回(全3回)
――〈シャンバラ〉以後、1980年代のリブ運動

Category: Column





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