05, Oct 2016

絵画をめぐって世界に触れる

山田純嗣(美術家)

図2 《(14-4) 日月山水》

図2 《(14-4) 日月山水》

絵画とは何か

PATinKyoto2016において、一般財団法人ニッシャ印刷文化財団賞をいただいた作品、《(14-4) 日月山水》は、大阪河内長野市にある金剛寺の《日月山水図屏風》(室町時代、六曲一双)(図1)を基にした作品です。この作品を含め、私は近年「絵画をめぐって」としたシリーズの作品を作っています。その作品群は、いずれも古今東西の名画をモチーフにしたもので、その制作手法は、まず元の名画に描かれている世界を石膏などを用いて立体として作ります。それを名画と同じようにセッテングして撮影し、原寸大まで引き伸ばしてモノクロにプリントします。その写真の上から全体的に均質に描き込んだ銅版画を重ね、最後にパネルに張りこみ、樹脂やパールで表面加工を加え、平面作品として完成させます。今回のPATinKyoto2016での展示では、そのモチーフとなった立体、写真に重ねる銅版画の原稿となるトレーシングペーバーに描いたドローイングもパネルの完成作とともに展示しました(図2)。

私たちが絵画を見る、絵画を体験するということはどういうことなのか、その体験している「絵画」とは何なのか、私は制作を通してそれを探っています。人は、目の前に広がる美しい風景に出会った時に、「絵みたい」と思わず口をついてしまうことがあります。目の前にあるものは「絵」ではないのに人の中には「絵」がある、その時の「絵」とは何なのか、それを探っているような感覚です。今回は、壁面に展示されて屏風状に前面に張り出したメインのパネル作品と、テーブルに置かれたモチーフとなった立体、壁面に貼り付けられたごく薄い紙に描かれたドローイング、それら3点の組み合わせによるインスタレーションという構成としました。絵画を解体し、形式から宙吊りにして、インスタレーションとしてもなお、その空間全体から「絵画」を感じることのできる作品、絵画とは何かを考えるような作品となればと考えました。

今回の《(14-4) 日月山水》は日本の古典絵画をモチーフとしていますが、これまでにモチーフとしてきたものは、日本のものに限らず、西洋の絵画もモチーフとしてきました。そうして制作していくうちに、東洋の絵画と西洋の絵画の空間認識の違いを発見することがしばしばあり、大変興味深く、絵画の広がり、奥深さを感じます。その発見は、私の制作のプロセス、立体を作ってカメラで撮影するという中で発見することが多いです。


山田 純嗣 YAMADA Junji
山田 純嗣 YAMADA Junji

1974年長野県飯田市生まれ、名古屋市在住。1999年愛知県立芸術大学大学院美術研究科油画専攻修了。美術家。「インタリオ・オン・フォト」と名付けた独自の技法で、絵画、写真、立体を用いて二次元と三次元を往還しながら絵画について探求している。主な展覧会として、2016年「PATinKyoto 第2回 京都版画トリエンナーレ2016」京都市美術館、一般財団法人ニッシャ印刷文化振興財団賞受賞、2015年「絵画をめぐって」Bunkamura Gallery(東京)、2014年「絵画をめぐって 理想郷と三遠法」一宮市三岸節子記念美術館(愛知)2013年「アイチのチカラ!戦後愛知のアート、70年の歩み」愛知県美術館、2012年「ポジション2012 名古屋発現代美術」名古屋市美術館、2009年「現代絵画の展望 12人の地平線」旧新橋停車場鉄道歴史展示室(東京)など。

山田純嗣 Junji Yamada Official Website
http://junji-yamada.com

図1 《日月山水図屏風》(室町時代、六曲一双)

図1 《日月山水図屏風》(室町時代、六曲一双)


写真と絵画のリアリティ

西洋において、ルネサンス期に発明された線遠近法の絵画技法は、その後の世界観を変えてしまうものでした。「絵画をめぐって」シリーズを始めた時、私は線遠近法から離れた作品をモチーフとすることから取りかかりました。それは、線遠近法で世界を捉えることに縛られてしまったルネサンス以降の西洋絵画と、それから自由になろうとした近代絵画を知るために重要なポイントだと感じたからです。

その際、写真を使ったということにも理由がありました。すでにバロック時代には、「カメラオブスクラ」というカメラの原型のような機器を使って絵を描いていたという記録もあり、カメラは線遠近法的に世界を捉える手助けとなっていました。カメラを通して見た世界を記録したものである写真とは、写されている対象がその現場に存在していたことを前提としています。だから人は紙切れに写っているものを見てもそれを紙切れと思わず「ああ、こういう風景や人が居たんだ」と、写っていることに注目し、それを事実として疑いません。それに対して、絵画は描かれたものであるというイリュージョンを前提としていて、線遠近法を用いた写実的なものであっても「どうやって描いたのだろう」などと鑑賞したりするでしょう。写実的であればあるほど、事実であることよりも技術に対する驚嘆の度合いが高くなることも興味深いです。私の作品は、写真の上に銅版画を使ってドローイングを重ねますが、この二つを重ねることによって、写真と絵画の持つ、前述の前提を取り払い、平面に対する宙吊り感覚を生み出したいと考えています。写真や絵画というジャンルを超えたところに、私の想像する「絵画」のリアリティがあらわれるのではないかと考えています。

中世の絵画と現代の絵画をつなぐ

「絵画をめぐって」シリーズの最初の作品は、中世のタペストリーの作品などをモチーフとしたものでした。線遠近法がまだ発明されていない中世の作品の中に現代絵画の種のようなものを感じたからです。中世のタペストリー《囚われの一角獣》(1495〜1505年、メトロポリタン美術館クロイスターズ分館所蔵)(図3)を学生時代に画集で初めて見たときの印象は、「下手な絵だなあ」でした。しかし今思えば、「下手だ」と思った感想の根拠は、具象画でありながらいわゆる線遠近法から外れた作品であったことによるのですが、そのことは、裏返せば自分が線遠近法的に世界を捉えることに縛られていたとも言えるのです。そうした印象を持ちながら、一度見たら忘れられない作品としてその後もずっと心のどこかに残っていました。その後しばらく経ちある作品を作ったとき、その構図や構造が、無意識のうちに《囚われの一角獣》に似ていることに気づき、心に残っていたことが何だったのか繋がった気がしました。中世の絵画と現代の絵画の底流では、構造が断絶することなく繋がっていることがわかり、それゆえにたとえ過去の作品であっても現代の私たちの心にも響くものとなっているのだと思いした。そこから、評価の定まってゆるぎない作品をモチーフに、形式を解体したり再構築したりすることで、一見してわかりづらい絵画の底流にあるつながりを浮き出させることができるのではないかと思い立ち、《囚われの一角獣》をモチーフとした《(09-7) UNICORN IN CAPTIVITY》(図4)から始まる一連の「絵画をめぐって」シリーズが始まりました。

図3 《囚われの一角獣》(1495~1505年、メトロポリタン美術館クロイスターズ分館所蔵)

図3 《囚われの一角獣》
(1495~1505年、
メトロポリタン美術館クロイスターズ分館所蔵)

図4 《(09-7) UNICORN IN CAPTIVITY》

図4 《(09-7) UNICORN IN CAPTIVITY》


モネの睡蓮から見る西洋絵画の視点

その後いろいろな作品を作っていく中で発見したことの中で、西洋絵画と東洋絵画の中での空間認識の違いを見つけて興味深かったことがありました。

《(14-1) WATER LILIES》(図5)について、元となったのは、《睡蓮》(1916年、松方コレクション、東京、国立西洋美術館)(図6)です。

この作品のモチーフを作るには、モネが見ていた視点を想定して、睡蓮の葉を配置し、実際の睡蓮の池を再現するように立体を作りました。モネはセザンヌに「素晴らしい目」と言われただけに、やはりものを見ることからは離れていなくて、この《睡蓮》のように荒いタッチのものでも立体で再現してみると、遠方の一筆描きで書かれたような睡蓮の葉の部分でも、立体で作った池を真上から見るとちょうどいい大きさの睡蓮になり、池全体が自然な状態にまとまることが驚きでした(図7)。モネは池の前に立ち、身についた線遠近法の感覚を用いながら対象をしっかり観察していたことがわかります。

さらにモネで注目するのは、初期から晩年にかけて徐々に量感のないものをモチーフにしていっていることです。《ルーアン大聖堂》の連作で見出した垂直方向の構成を、《ポプラ並木》の連作でよりシンプルにしていったこと。そして、《睡蓮》では、睡蓮の形が遠方(画面上方)に向かうに従って徐々に細くなり水平方向のストロークに変化していく構成と、水面に映り込む庭の木々の垂直方向の構成が組み合わされて、対象を写実的に写すということより、平面としての画面構成に対する意識の方が高くなっているように感じます。特に西洋美術館所蔵の《睡蓮》は習作のような作品なので、モネがどういう意識で睡蓮に臨んでいたのかが伝わってきます。現実の世界から水平垂直の構成を見つけることをしているのが興味深く、後にモンドリアンが風景画から抽象画に転換していったことに先行しているとも思いました。

もう一つ注目したい大きな要素は、印象派の点描のような描写の作品は、観者がその作品に何か対象を見出したとしても、より細かく見ようと画面に近づくと、その思いに反してカラフルな絵の具の物質的な様相を見るだけで、当初見出した対象は失われてしまうことです。つまり、実は目の前にあるのはただの絵の具でしかなく、観者がそこに見出したと思った対象は、観者自身の中にしかないのだと気づかされるのです。あらためて《睡蓮》を見てみると、睡蓮の周りの水面に木立が写り込んでいますが、現実の水面に映る鏡像は、それを実際に掴もうと水に手を入れれば、その像はたちまち波紋となって失われてしまいます。このことは作品に見出した対象を見ようと画面に近づくと対象が失われることに似ています。モネは印象派の絵画の持つ性質を水に映る景色に重ねていたのでしょうか。

このように、モネの作品だけではなく、ルネサンス期以降の西洋の線遠近法をベースにした絵画で気づくのは、西洋のルネサンス以降の絵画では、対象を見る人(=画家と観者)の視点は画面の外の一点に固定されていて、近づくことはできないということです。線遠近法は、画家の視点を一点に定め、画面の中の特定の一点(消失点)に向けてすべての線が集束し、近くのものは大きく、遠くのものは小さく描く技法です。逆に言えば、視点が移動してしまっては描くことができないのです。完成した作品を正確に見るには、それを描いた画家と同じく観者も同じく画面の外に立って視点を一点に定めて作品を見る必要があるのです。それはいわば室内から窓を通して外の景色を動かずじっと眺めるような感覚、もしくは座席に座ってステージ上で演じられる演劇を見ているような感覚です。

図5 《(14-1) WATER LILIES》

図5 《(14-1) WATER LILIES》

図6 モネ《睡蓮》(1916年、松方コレクション、東京、国立西洋美術館)

図6 モネ《睡蓮》
(1916年、松方コレクション、東京、国立西洋美術館)

図7
図7

図7


雪舟から見る東洋絵画の視点

それに対して線遠近法に縛られていない古い東洋の絵画は、どのような特徴があるでしょう。それについては、雪舟の《秋冬山水図》(国宝、東京国立博物館所蔵)(図8)をモチーフに作った《(14-5) 秋冬山水》(図9)で一つの仮説を立てて考えました。

二点組のこの作品は、秋景と冬景で印象が違いますが、私は同じ場所を描いたものではないかと仮説を立てました。図を参考に見てください(図10)。右側の秋景は遠くから全体を眺めた風景、左側の冬景は秋景に描かれた風景の中に入って描かれた風景だと考えます。作品を見る視点が西洋絵画のように画面の外にあるのではなく、冬景の画面中央下部に小さく描かれた道を行く旅人の位置にあると考えました。そのヒントとなるのは、冬景の右上方にせり出すように描かれた岩壁や、道の両側の岩です。冬景の右上の岩壁は秋景の右上方に小さく描かれた細長い岩山ではないかと思います。秋景にも冬景と同様に道が描かれていますが、そこに立って周りを見渡したと想定すると、秋景の道の左右にある岩A、岩Bは、冬景のように大きくなり視界を遮ります。そして右の岩C越しに小さめに見える木は、秋景の岩Cの上にある木でしょう。道を進んでいく過程で、秋景では遠くに見えていた岩山が近づいてきて、冬景の岩壁のように迫ってきているという心情を含めた情景ではないでしょうか。楼閣の屋根の向きがねじれてしまっていますが、そこは、冬景の岩壁同様、雪舟特有の心情を優先して勢い余ってしまったところと判断します。

図10

図10

そんなことを思いついたので、実際に立体を作った際に、秋景の道の位置にスマートフォンを置いてみて撮影してみました(図11)。もちろんそっくり冬景のようにはなりませんが、冬景の道の左右に迫る岩山の感じは出ました。

図11

図11

最初に述べましたが、冬景は画中の旅人の目線から見た風景なのではないかと考えると、作品を見るわれわれは、実は旅人で、まず画面の外から秋景に見える遠くの風景を眺め、その風景の中に入っていく、そこで冬景に目を移し、秋景で遠くに見えていた険しい岩山が目の前に迫ってくるという感覚を味わうのです。秋から冬へという時間の流れと、景色の中を進んでいくことという、バーチャルリアリティのような作品なのではないかと考えると、この作品にある種の臨場感を得ることができます。

西洋の線遠近法の絵画が、作品と観者を対峙させ、窓を通して向こう側を覗くような作品であったり、舞台で演じられているものを客席から見るような作品だったりするとしたら、東洋の近代以前の絵画は、作品の中に入ってその空間を味わうような、作品と観者を分けない作品なのです。

いずれにしても、実際には絵画はキャンバスや紙の上に付着した絵の具や墨でしかなく、それを見る側である我々が、そこに対象を見出し、「絵画」だと感じているということにおいては、洋の東西にかかわらず共通しています。そう考えると、「絵画」は、平面の物質の方にあるのではなく、見る人の中にあるということに気づき、ある美しい風景を見たときに「絵みたい」と人が感じることについてもヒントがあるのではないでしょうか。

図8 雪舟《秋冬山水図》(国宝、東京国立博物館所蔵)

図8 雪舟《秋冬山水図》(国宝、東京国立博物館所蔵)

図9 《(14-5) 秋冬山水》

図9 《(14-5) 秋冬山水》


無防備のリアリティ

西洋絵画において、モダニズム以前の神を中心とした物語を描いてきた作品では、先程述べたように、絵画は演劇のごとく観者に向かって演じられてきました。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》が、演劇での食卓と同様に見る側に背を向けて座る人物がいないことを思い浮かべてもわかります。西洋絵画の中で演じられる世界には、雪舟の風景の中の旅人のような、「私」という一人称はありません。唯一、「私」が描かれていることで一人称であると思われる自画像でも、その主人公の「私」は一人称ではないのです。「私」は外在化され、三人称と同様に「私がここにいる」と示され、それを画家も含めた私たちは外部から見るのです。フランスのリアリズムの画家クールベの自画像として描かれた《傷ついた男》(1954年頃、オルセー美術館蔵)(図12)は、そのことを暴いています。

図12 クールベ《傷ついた男》(1954年頃、オルセー美術館蔵)

図12 クールベ《傷ついた男》(1954年頃、オルセー美術館蔵)

クールベは自画像ですら「私」そのものではないことを自覚し、自分の目をつぶった姿を描くことで、「私」を外在化して説明するのではなく、ありのままの「無防備さ」の中にリアリズムを見出したのです。絵画の中で外在化していた私も含めた世界をリアルなものとして取り戻すには、無防備な姿を描き、演劇的な要素を排除する必要があったのです。
東洋の絵画が、作品の中に時間や複数の視点を持ち込むことで、結果として作品を観者から外在化しないようにしていたことに対して、クールベ以降の西洋絵画は、あらかじめ存在する神という物語の中心を排除して、そこにある絵画を成り立たせる物質的視覚的要素を並列に配置することで作品を外在化しないようにしたのです。絵画は絵画そのものの絵の具の色の美しさや、絵肌や筆致、構図や形のリズムを味わうようになったのです。絵画の自律です。

意味を超えて世界に触れる

しかし、西洋と東洋、近代以前以後、いずれにも共通するのは、絵画は見る運動の中にしか存在しないということです。その運動が無ければ、絵画はただのシミの付いた板でしかないということは、物語が描かれていようが、抽象だろうが共通しています。運動とは、対象との関係が確定せず、確定しうる可能性があるという状態のことです。あらかじめ用意されたものではなく、制作者は、不可逆なものとしての描く行為や、積み重ねていくプロセス一つ一つのそのこと自体が、観者は、わからないという状態や興味を持つことを維持している状態がそれにあたります。その時の意味から切断された「無防備な」没入こそ、運動を発生させているのではないでしょうか。没入の最中には空白が生まれます。空白はその時点ではわからず事後的に認知されるものですが、没入している運動の中にすでに存在しています。この無防備な没入の運動は、世界に触れる触感を味わうことのできる唯一の手段ではないかと感じます。世界に触れる感覚は、事後的な意味を超越して、この世に意味をもって生まれてきた人が一人もいないこととダイレクトに共鳴することではないでしょうか。絵画をめぐって私は、わからないと感じることに寄り添いつつ、世界に触れる感触をより実感できるものとして共有していきたいと考えています。


絵画をめぐって世界に触れる

Category: Column





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