29, Mar 2010

タルホの声とデュシャンの声

藤本由紀夫

この人にきく稲垣足穂

1970年4月21日、朝刊のテレビ、ラジオ欄を何となく広げると、思いがけない名前が目に飛び込んできた。

「この人にきく」というNHKの番組に、愛読していた稲垣足穂が登場するということである。朝の9時15分からの放送と知り、私は慌ててテープレコーダーの準備をした。録音の準備がどうにか間に合った頃、その番組は始まった。「この人に聞く、今日は作家の稲垣足穂さんにお話を伺います。聞き手は作家の瀬戸内晴美さんです」という無個性なNHK口調のアナウンサーの紹介の後、甲高い瀬戸内晴美(寂聴)の晴れやかな声に続いて聞こえてきた、初めての足穂の声は、濁った声で少しばかりどもりながら早口で話す、朴訥な老人のようで、作品を読んだイメージとは随分かけ離れていた。

その時は、番組が始まって10分程して突然やってきた。
それまで、こもりがちに話していた足穂が、若い頃の飛行機の話になると、その頃の事を思い出したのだろう、突然「コンターッククーペ、コンターッククーペ、ブルルルルルルルルウン!」と叫びだした。私はその声にのけぞってしまった。稲垣足穂が益々好きになった瞬間である。瀬戸内晴美も楽しそうに笑っている。
後に、このインタビューが掲載された本を読んでみた。あの興奮した箇所は、無表情なカタカナの一行であった。

1957年、マルセル・デュシャンはアメリカでの講演のために『THE CREATIVE ACT』と題する論文を書き、英語で発表した。その後このテキストはデュシャン自身の朗読により録音された。
この朗読が入っているCDを手に入れ、聞いてみると、ゆっくりとよく通る声でデュシャンは語っていた。その声の音色は、足穂と同じく魅力的であった。一定のリズムで落ち着いて語るデュシャンの声は、聞いているうちに「音楽」を体験している気持ちになってきた。
ふと思い立ち、ポータブル・キーボードをテーブルに置き、CDを再生し、デシャンの朗読に適当に伴奏をつけてみた。キーボードのプリセットのワルツのリズムと、キーボードの私の即興の伴奏に、デュシャンは見事に合わせて語り(唄い)だした。デュシャンはヴォーカリストとしても天才であるということがわかった。

音となって表現された言葉が、文字という記号に変換され、紙の上に並べられた状態を目で見る時、私たちは何か、とても大切なものが、消えうせてしまっていることを意識するべきであろう。

もし発明王エジソンが、グーテンベルクよりも早く生まれていたならば、書物は音の記録物として流通していたかもしれない。
ヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイヴ」の中で、リラダンは主人公エディソンに次のように語らせている。
「鋼鉄の針を一本、チョコレートの包み紙を一枚、まあ大體さう言ったやうな物と、銅の筒を一つ、これだけあれば天地のあらゆる聲や響きを録音出来るのだ。」(渡辺一夫訳、岩波文庫)
それほど、音を記録するというテクノロジーは簡単なものなのである。確かに19世紀の終わりまで、何故この大発明は待たれなければいけなかったのか不思議である。

マクルーハンは中世ヨーロッパの聴覚的空間は、「活版印刷」と「遠近法」の発明により、平面的な視覚的空間に移り変わったと言っている。私たちが接する「書物」の空間こそまさに視覚的空間そのものである。
その書物の空間が変わろうとしている。テクノロジー環境の変化により、ひょっとしたらグーテンベルク以来の転換期に私たちは遭遇しているのかもしれない。しばらく私たちはアリスのように不思議な国の冒険をすることになるのだろう。アートの世界はすでに平面的世界から一歩足を踏み出している。

基督は、その「福音」を印刷することだけを許されたが、蓄音器に吹込むことは承知されなかった。然し、「聖書を讀み給へ」と言ふ代りに「聖音を聴き給へ」とでも言へた筈だったのになあ!ーーー結局もう後の祭さ!

ヴィリエ・ド・リラダン 「未来のイヴ」渡辺一夫訳 岩波文庫


藤本 由紀夫 Yukio Fujimoto
藤本 由紀夫 Yukio Fujimoto

80年代半ばより日常のなかの「音」に着目した装置、サウンド・オブジェを制作。インスタレーションやパフォーマンス、ワークショップを通じて、空間における「音」の体験から新たな認識へと開かれていくような活動を展開している。主なグループ展に2001年「第49回ヴェニス・ビエンナーレ」、2007年「第52回ヴェニス・ビエンナーレ」(ヴェニス)など。


タルホの声とデュシャンの声

Category: Column





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