10, Aug 2010

2009年 下出和美個展
数学の家庭教師が「京都では、深夜2時でも女の子がひとり歩きできる」と言うので、高校生の私は心底驚いた。阪神間のベッドタウンしか知らない私にとって、夜とは、終バスが午後8時台の街のすべてが停止したネガティブな闇だったし、人々の休息のためにあると思っていたからだ。夜は、眠りの中にいる私や家族のなにごとも更新することがない、私たちを知らぬ間に次の日へと送るいわば支配者のような存在であった。ましてや、その真ん中の深夜2時などという時間帯は、あらゆる危険と悪意に満ち満ちたミステリアスな世界に他ならなかった。京都深夜2時って、何?高校2年生は、異次元としての京都にすっかりはまってしまったのだった。
その後、京都に30数年も住んでしまって、仕事や遊びの帰りに平然と深夜2時のひとり歩きするとき、高校時代に植えつけられた<京都>イメージのまっただ中にいる、と思う。家庭教師から京都芸大の入試(当時は学科が5科目)にようやく足るほどの数1を教えてもらって、私は、平凡な高校生から、6浪や7浪や大酒飲みやヒゲオヤジがいっぱいいる京都芸大の学生になった。その途端に昼や夜に一緒くたに取り囲まれて、いつしか1日24時間が必要不可欠な時間の長さとなった。大学時代の思い出は、それまでの記憶に夜の部を足した分量だ。明るい日中の記憶より、学祭のテントとテントの間の暗闇とか徹夜の廊下の隅とか、友人2人とたどり着いた稲垣足穂のお通夜とか、夜の出来事の記憶のほうが鮮明である。
芸大にいったからには、一生、美術。と何故思い込んだか、誰のせいでも本のせいでもないけれど、卒業して阪神間に帰り、生産的な昼と休息の夜に分たれた生活に戻る気に到底なれないまま、私は美術を仕事にした。作品をつくる側は10年足らずで断念したが、時代の流れもあって、画廊運営や展覧会企画などの裏方的な仕事に転じることができた。そうなると、他人の時間や時差のある国の相手もふくめて、私には、昼や夜の区別がますます不必要になった。図らずも昼夜を同等に過ごすうち、京都の真夜中という時間に貴重な創造の一瞬も見ることができた。
が、この京都暮らしの間に、他の街もそうであるように、京都の真夜中はあまり暗くなくなった。創造的な時間やその源泉であるような闇も少なくなったように思う。自身が年齢や経験を重ねた分、世界の意図や意味が隠されたような夜がミステリアスでなくなった。いま、私は、かつてほど京都の夜に興味がないのである。
その反面、夏の炎天下の街に佇んでいる影や人々の会話に見え隠れする抽象的な陰影、伝統文化と歴史の間に潜む闇などに心ひかれている。京都は複雑で年季の入った陰影を背負い、人にひたと寄り添うのである。30数年たてば、モノも化ける。京都人でない私が、近頃では、ときどき<京女>に間違われる。私は、昼日中、そこらじゅうにある闇にすっかり取り憑かれているのかもしれない。
余談だが、京都での学生生活の夢をふくらませてくれた家庭教師は、その後医者になられたようで、インターネットで久しぶりにその名に出会うことができた。勉強をせずに彼と雑談ばかりしていたので、入試の数学は、実は5点だった(もちろん100点満点で)。それを伝えていないことを思い出した。

神戸生まれ。京都市立芸術大学卒。1986年、京都市上京区にヴォイスギャラリー(現MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w)開業。京都芸術センター企画委員、主催公募展審査員などを経て、現在、財団法人京都市芸術文化協会評議員、京都嵯峨芸術大学・短期大学非常勤講師、京都精華大学非常勤講師、大阪成蹊大学芸術学部非常勤講師など、多方面で活躍中。
ヴォイスギャラリーは、アーティストとして活動していた松尾が、アーティスト・ラン・スペースとして開設しました。ヴォイスとは、アーティストの<声>の意味です。アーティスト間の情報交換や実験的作品(無名で金銭的価値のつかない)を中心に紹介してきました。
貸し会場/企画展の両方を行いながら画廊を維持運営する一方、京都市の芸術環境整備への協力として、松尾個人が京都市や企業との共同プロジェクトなどに参加してきました。
2005年に画廊を拡張。2室になった展示室で多彩な企画展示を開催してきましたが、さらに大きな空間をめざして、2009年2月に元染織工場に移転しました。その際、これからの海外との交易や情報交換をめざし、名称にギャラリスト名を明確にするために松尾の名を付け足しました。
京の闇
Category: Column