30, Jun 2014

建築アーカイブから見えてくるもの
―京都工芸繊維大学美術工芸資料館における活動を通して

京都工芸繊維大学美術工芸資料館は、デザイン、建築、絵画、彫刻、金工、漆工、陶磁器、繊維品、考古品など、多分野にわたる収蔵品の展示、アーカイブを行う教育研究施設。本稿では松隈 洋氏(京都工芸繊維大学教授)に、展覧会「村野藤吾建築設計図展」を中心とする同資料館の活動紹介や、それらの活動を通して見えた建築アーカイブの可能性などについて寄稿いただいた。

寄稿:松隈 洋(京都工芸繊維大学教授)

はじめに

京都工芸繊維大学美術工芸資料館は、1981年に設立された大学博物館である。所蔵する美術工芸品は、元々は、京都工芸繊維大学の前身のひとつである京都高等工芸学校の収集品にはじまる。京都高等工芸学校は、1902(明治35)年に創立され、ヨーロッパにおける新しいデザインの動向を研究し、わが国においてはじめて本格的なデザイン教育を開始した学校のひとつだった。創設時の教授陣には、著名な洋画家の浅井忠(1856~1907年)や、後に京都帝国大学の建築学科を創設する建築家の武田五一(1872~1938年)らがいた。その草創期に、彼らが教材としてヨーロッパで購入した最新のポスター類(その多くがロートレックやビアズリー、ミュシャら、アール・ヌーヴォーの代表的な作家たちのものであった)が収集品の端緒となったのだという。その他の収蔵品も、絵画、彫刻、家具、工芸品、繊維製品など多岐にわたっている。

このような歴史をもつ美術工芸資料館に、日本の近代建築を代表する建築家の一人である村野藤吾(1891~1984年)の建築図面資料が収蔵品として最初に登録されたのは、1996年12月20日のことである。これは、村野の没後、遺族から寄贈されたおよそ5万点を超える建築図面の整理が順次行われ、正式な登録手続きへと進む流れの起点であり、現在、約2万5千点が、収蔵品として登録されて、保管されている。ここでは、村野藤吾の略歴と収蔵までの経緯、過去12回にわたって開催してきた展覧会「村野藤吾建築設計図展」(1999~2013年)を中心とする活動について紹介しながら、建築アーカイブの可能性について考えてみたい。


松隈 洋 MATSUKUMA Hiroshi
松隈 洋 MATSUKUMA Hiroshi

1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業、前川國男建築設計事務所入所。2000年4月京都工芸繊維大学助教授。2008年10月同教授。現在に至る。工学博士(東京大学)。専門は近代建築史。2013年5月DOCOMOMO Japan代表。著書に、『ルイス・カーン』、『近代建築を記憶する』、『坂倉準三とはだれか』、『残すべき建築』など。2005年~06年「生誕100年・前川國男建築展」事務局長、「文化遺産としてのモダニズム建築―DOCOMOMO20選」展(2000年)、「同100選」展(2005年)キュレーションの他に、レーモンド、坂倉準三、ぺリアン、白井晟一、丹下健三、村野藤吾など多くの建築展に携わる。文化庁国立近現代建築資料館運営委員。

撮影:齋藤さだむ

京都工芸繊維大学美術工芸資料館
http://www.museum.kit.ac.jp/


建築家・村野藤吾について

1891年5月15日に佐賀県の唐津で生まれた村野藤吾は、1918年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、大阪の渡辺節建築事務所に入所して、設計の実務を学んでいる。その後、1929年に独立して自らの事務所を設立する。以後、1984年11月26日に93歳で亡くなるまでの65年という長い期間にわたって、関西を中心に精力的な建築設計活動を展開し、名作と呼ばれる建築作品を数多く遺した。代表作品としては、森五商店東京支店(1931年)、心斎橋そごう(1935年・2003年取り壊し)、宇部市民館(1937年)、高島屋東京店増築部分(1952~65年)、世界平和記念聖堂(1954年)、大阪新歌舞伎座(1958年・2009年閉鎖・2014年取り壊し)、都ホテル佳水園(1959年)、日本生命日比谷ビル(1963年)、西宮トラピスチヌ修道院(1969年)、箱根プリンスホテル(1978年)などが挙げられる。

村野は日本の木造建築の伝統から最先端のモダニズムの手法までを自在に消化した独自の建築思想と、素材やディテールにこだわった職人的な作風で知られる。彼が設計を手がけた建築作品に対しては、日本建築学会賞、日本芸術院賞、毎日芸術賞など数多くの賞が授与され、同時代においても高い評価を受けてきた。また、近年では、その再評価の動きも顕著である。そのことは、たとえば、近代建築の保存と記録を提唱する世界的な組織DOCOMOMOの日本支部であるDOCOMOMO Japanが2003年に選定した現存する日本近代建築の代表例100選中、5件を村野の建築作品が占めていることにも現れている。このような再評価の意義を受ける形で、2005年には、宇部市民館が村野の建築作品としては最初に、国の重要文化財に指定された。続く2006年には、被爆地・広島に建設された世界平和記念聖堂が、丹下健三の広島平和記念資料館(1955年)と共に、戦後の建物としては初となる国の重要文化財に指定された。さらに、2009年には、高島屋東京店増築部分が、百貨店建築としては初となる国の重要文化財に指定された。このように、村野の建築作品は、現在、その建築的な価値を広く認められ、文化財としての意味を持ち始めている。また、当然のことながら、これら重要文化財となった建物の設計原図についても、美術工芸資料館の収蔵品に含まれており、その原図類は保存改修や耐震改修工事にも利用され始めている。


収蔵までの経緯と「村野藤吾の設計研究会」の活動

このように、すでに歴史的な資料ともいえる村野藤吾の建築図面が一括して美術工芸資料館へ寄贈された経緯については、美術工芸資料館の初代館長を務めた中村昌生(教授、現・名誉教授)の回想(註1)によれば、おおよそ次のようなことだったという。1991年、中村は村野のある建築作品を案内された際、村野事務所の所員の岡林成明から、建築図面を「美術工芸資料館で預かって貰えないでしょうか」との打診を受ける。そして、翌年の1992年には、村野の没後に事務所の経営を引き継いでいた子息の村野漾(1936~2005年)から、正式に、「村野の図面は全部京都工芸繊維大学の美術工芸資料館へ寄贈することに決心しましたから宜しく」との手紙を受け取っている。また、同じ文章の中で、中村は、この寄贈依頼の背景には、当時、資料館専任の助教授だった竹内次男(後に教授、館長、現・名誉教授)の父が戦前村野事務所の所員であったこと、村野の良き理解者である編集者の吉田龍彦を仲立ちとする村野藤吾との個人的な信頼関係があったことも証言している。

こうして、中村の後を引き継いだ竹内の文章(註2)によれば、1994年に最初の図面類が資料館へと運び込まれた。しかし、紙筒に長年入れられて丸まっていた図面をシート状に伸ばすために、数年を要してしまい、ようやく、1997年秋から本格的な図面の整理作業に着手できたのだという。一方、整理作業と併行して広く図面を公開するべく、1999年夏には、大学内部の歴史と設計を専門とする教員に建築設計の実務経験をもつ外部の委員を交えた、約20名の委員から構成された「村野藤吾の設計研究会」(初代委員長:西村征一郎教授、現・名誉教授)が組織される。以降、研究会の委員長は、西村から竹内へ、竹内から現在の石田潤一郎教授(2007年~)へと引き継がれてきた。そして、この研究会が母体となって、1999年の第1回から2013年の第12回まで、収蔵された設計原図を中心とする展覧会「村野藤吾建築設計図面展」を開催してきた。また、それにあわせて、毎回、図録『村野藤吾建築設計図展カタログ』を発行し、関係者を招いたシンポジウムも開いてきた。因みに、2000年に大学に着任した筆者は、第2回からこの活動に加わり、今日に至っている。

第12回 村野藤吾建築設計図面展 会場風景
第12回 村野藤吾建築設計図面展 会場風景

第12回 村野藤吾建築設計図面展 会場風景

註1)中村昌生『数寄屋と五十年』淡交社2007年

註2)竹内次男「村野藤吾建築図面受け入れ並びに整理経過を巡って」『村野藤吾建築設計図面展カタログ』京都工芸繊維大学美術工芸資料館・村野藤吾の設計研究会1999年


建築図面の研究と公開、建築教育への活用

資料館へと寄贈された建築図面は、村野藤吾の建築創造の軌跡を知る上で、欠かすことのできないものばかりである。というのも、そこには、「実施設計図」と呼ばれる建設工事発注用の最終図面だけではなく、通常は目にすることのできない設計の途中段階における検討用の図面や、そこに描き込まれた村野の自筆と思われるスケッチ、あるいは、計画だけに終わって実現しなかった未完の建築作品の図面など、まさしく建築設計の全過程にわたる図面が含まれているからである。これらの資料によって、はじめて、村野の建築思想の全体像が明らかにできるに違いない。その意味で、村野藤吾の建築作品への評価が高まるに従い、今後、これらの建築図面の存在価値はさらに増していくものと思われる。

原図は、そのほとんどが未整理のまま、紙筒に入れられた状態で長く保管されていた。そのため、収蔵作業は、整理方法そのものを模索することから始められた。その結果、原図を建物ごとに100枚以下に分けてフォルダーに鋏んで保管されることとなった。それらの建築図面は、研究会の委員と大学院生や博物館実習の学生たちの手によって、定期的に順次整理と建物名の特定や設計プロセスの解明などが図られ、採寸とナンバリングを施す作業が続けられてきた。更に、原図を大型のスキャナーで読み取り、デジタル・データ化する作業も進めている。こうした作業の成果を受ける形で、毎回、テーマを決めて展覧会を開催してきた。各回のテーマを列記すると、次のようにまとめられる。

表:村野藤吾建築設計図面展 テーマ一覧
回数 開催年 テーマ
第1回 1999年 (*テーマは定めずに、収蔵図面の全体像を紹介した。)
第2回 2000年 広島世界平和記念聖堂と日本ルーテル神学大学を中心に
第3回 2001年 村野藤吾とふたつのそごう
第4回 2002年 村野藤吾の初期作品をめぐって
第5回 2003年 村野藤吾と建築写真―写真家・多比良敏雄の仕事を通して
第6回 2004年 村野藤吾と1940年代―知られざる作品を通して
第7回 2005年 村野藤吾と公共建築
第8回 2006年 文化遺産としての村野
第9回 2007年 村野藤吾・晩年の境地
第10回 2008年 アンビルト・ムラノ
第11回 2012年 新出資料に見る村野藤吾の世界
第12回 2013年 都市を形づくる村野藤吾のファサードデザイン

建築図面の研究と公開、建築教育への活用

第1回から第3回展までは、原図資料の全体像や代表作品を紹介する形だったが、第4回展以降は、ほぼ年代順に村野藤吾の建築作品を取り上げながら、残された原図資料の確認と建物の現地調査を実施してきた。また、第10回展では、計画段階で未完に終わり、実現しなかった(アンビルト)建築ばかりを取り上げた。さらに、第11回展では、新たに見つかった図面資料から判明した村野の建築思想と方法について紹介した。そして、第12回展では、それまでの展示の成果と蓄積を受けて、それらを貫く建築思想に迫ろうと、村野がいかに都市を考えていたのか、を建物の外観(ファサード)のデザインから読み取る試みを行った。いずれも、その都度、研究会での議論を踏まえた試行錯誤の結果である。

そして、これは、実際に作業してみてはじめて見えてきたことだが、展覧会には、それを開催することによって、さまざまな資料の発掘や関係者からの情報を得る貴重な機会を切り開いていく力が備わっていることにも気づかされた。それに関連して紹介しておきたいのは、第5回展で取り上げた建築写真家・多比良敏雄(1911~84年)の仕事である。多比良は、村野藤吾に信頼されて、彼の建築を戦前の1930年代から50年の長きにわたって撮り続けてきた写真家であり、撮影した村野建築の数は約80件、撮影された総カット数は2,700枚を超える。幸いにも、ご子息の多比良誠氏が継続して写真家として仕事をされており、村野展を通して知遇と協力を得て、この第5回展では、その全体像をはじめて紹介することができた。それは、建築アーカイブにとって、竣工時を記録した建築写真の存在がいかに大切であるかを痛感させられる機会ともなった。また、それ以降の展覧会においても、多比良敏雄の撮影した竣工写真を数多く紹介させていただいている。

また、特殊なことではあるが、大学という教育の現場で博物館活動と展覧会を続けることの意味についても、発見することが多い。毎年開催してきた「村野藤吾建築設計図面展」では、大学院生が資料整理から現地調査、インタビューの書き起こし、カタログの編集、会場構成と設営作業、展覧会やシンポジウムの運営などすべてを担当する。同時に、学部の3回生は、残された原図や写真資料、現地調査などを元に、展示品となる模型を一人ひとつずつ担当して制作を行ってきた。こうした作業を通して、学生たちは、はじめて村野の建築と出会い、その原資料に触れていく。そして、それを外部へと発信する社会的な役割の一端を担うことによって、建築への理解を飛躍的に深めていくのである。現在の建築界では、コンピューターによる設計が当たり前になりつつある。大学の設計教育も例外ではない。そんな中、手描きで端正に描かれた村野藤吾の設計原図は何よりの生きた教材であり、その原図を通して膨大な設計作業の一端に接することによって、学生たちは建築に向き合う姿勢そのものまでも学び始めていく。その教育的効果は測り知れない。


建築アーカイブの社会的使命と可能性

日本でも、2013年5月、東京都文京区湯島に、文化庁国立近現代建築資料館が開館し、ようやく長く待望されてきた国レベルでの建築博物館の活動がスタートした。今後、収集と展示、デジタル化と資料公開へ向けた作業が進んでいくと思われる。筆者自身も、開館前から運営委員会に加わっており、大学での活動を踏まえた展開ができればと思う。しかし、残念ながら、こうして広く近代建築への再評価が進む一方で、都市の激変に伴い、著名な近代建築の多くが次々と取り壊しの危機に直面している。ことに、2000年代に入ってからは、取り壊しの動きは明らかに加速し始めた。例えば、近年姿を消した建築を列挙すると、同潤会上野下アパート、東京中央郵便局(一部外壁保存)、大阪中央郵便局、京都会館(一部保存)、大阪ダイビル(一部再現保存)などが挙げられる。いずれも都市の風景として長く市民に親しまれてきた建物ばかりであり、今後、無造作にこのような取り壊しが進めば、建築文化そのものの存在が危うくなることは避けられないだろう。

良く考えてみれば、こうした現実の背景には、大学で建築を学ばない限り、建築の存在を自覚するきっかけを持つことができない、というこの国が抱える構造的な問題が横たわっていると思えてならない。建築は一人建築家や建築技術者によって生み出されているわけではけっしてない。依頼者がいて、利用者がいて、愛着を持つ人々に支えられることで、建築ははじめて社会的な存在として生まれ、生き続けることができる。おそらく、木造の街並みが残る場所で、日常的に磨かれてきた建築への関心や見識が、近代建築以降の巨大化する都市の中で見失われてきたことも、大きかったに違いない。

こういった現状を目の当たりにしたとき、自ずと建築アーカイブが持つ社会的な使命と可能性が見えてくる。すなわち、展覧会活動や地道な図面の収集と公開などを通じて、身近なはずの建築に対する人々の関心を高め、先人たちが築き上げてきた建築文化に触れる機会を提供すること。それによって、広く建築への理解を深め、過去と未来をつなぎ、人々の日常的な生活環境を形づくってきた建築の意味を伝えること。そして、勝手な夢想ながら、小学校や中学校で、住まいや町、建築や都市について、子供たちが学べる環境を整えること。筆者の所属する美術工芸資料館でも、かつて、建築展に合せて、近くの松ヶ崎小学校の子供たちに向けた建築ワークショップを行ったことがある。それは、学生たちにあらかじめ住宅模型の型紙を準備してもらって、それを組み立てて色を付けたり、家具を置いたりする工作をしてもらい、最後は、それらを組み合せて町を作ろう、という内容だった。小さな試みかもしれない。それでも、身近な住まいと町に興味を開く機会にはなったと思う。まだまだ始まったばかりの建築アーカイブだが、その可能性は、大きく広がっている。

第12回 村野藤吾建築設計図面展 ギャラリートーク風景
第12回 村野藤吾建築設計図面展 ギャラリートーク風景

第12回 村野藤吾建築設計図面展 ギャラリートーク風景


建築アーカイブから見えてくるもの
―京都工芸繊維大学美術工芸資料館における活動を通して





PAGE TOP