12, Sep 2017

実写映像が持つ無限の闇

ビデオカメラでとらえられた実写映像素材のレイヤーを、幾重にも渉り重ねる手法を用いて作品制作を行う映像作家 宮永亮。今回は同氏が一貫して表現の素材として採用している「実写映像」について、小論を寄稿していただいた。近年、CGやARなどの新しいテクノロジーの出現により、相対的に不自由さ、不完全さが増した実写動画だが、その不自由さ、不完全さゆえに実写動画が新たに獲得したリアリティーとは。また最終頁では、この考え方がどのように同氏の表現において応用されているのかにも触れられている。

文:宮永 亮(映像作家)

MOVING Live 2016 YYBY + 宮永亮 ライブ風景

"MOVING Live 2016" YYBY + 宮永亮 ライブ風景
2016年11月6日(日) METRO[京都]
photo by INOUE Yoshikazu

1. 実写表現とCG

本稿では、私が自身の表現の素材として採用している、「実写」について改めて考えてみたい。

現代の「動画」(moving image)という領域において、実写は決して唯一の選択肢ではなく、飽くまでもワン・オブ・ゼムの扱いである。例えば全ての素材がデジタル的に作られた、ベジェ曲線(※1)オブジェクトの2Dモーショングラフィックス、「不気味の谷」(※2)を超えつつある3DCG、オーディオビジュアルイベントに於いて、リアルタイムで音声に同期するインタラクティブな線描CG、などなど数多の例を挙げることができる。

Eadweard Muybridge『The Horse in Motion』

Eadweard Muybridge『The Horse in Motion』

「現代の」と述べたのには理由がある。かつての動画というものは、そうではなかったからだ。動画の歴史を遡れば、その始まりには「写真」と「アニメーション」がある。マイブリッジの『The Horse in Motion』の成り立ち(※3)や、ゾエトロープ(※4)という原始的な機器の存在を考えれば、実写(写真)の独立したフレームと、アニメーションという連続したフレームが融合されたことによって動画の歴史が準備されたことが見えてくる。そして動画の歴史には必ず、現実世界をレンズによって切り取るという「光学的な現実のトリミング」行為と、それがもたらす制約が付いて回ってきた。

一方で昨今のCGベースの表現の多くは、シミュレートされた仮想世界があり、そこにまた仮想のカメラのフレームを持ち込む、という順序でイメージが生成される。この仮想世界内では、「光学的な現実のトリミング」そのものがシミュレーションの対象となっていて、原理的にはほぼ無限と言ってよい、カメラワークと光条件の組み合わせがあり得ることとなる。

現状では、実写であれCGであれ、最も多くの人が目にする動画というのは基本的には同じフォーマットにおいて視聴される。ある画面アスペクト比の矩形、すなわち動画のフレームという窓を通して映像内の世界を覗き込むというものが基本となっている。いわば実写であれCGであれ(あるいはその混合であれ)、同じ土俵での勝負をしている、という状態だ。統一された視聴フォーマットの中で、前者と後者の手法の違いによる空間表現力は大きく異なってくる。単純にカメラワークと光の条件という観点から比較すれば、後者のアドバンテージは前者とは比べ物にならないほど大きいといえるだろう。CG世界のカメラは、その世界のいかなる場所にも瞬時に行くことができ、いかなるアングルからでも、過不足ない光量の元で動画のフレーミングを行うことができるからだ。そしてそれは何度でも(!)やり直しが可能な、可逆的なプロセスなのである。

では、そういった可逆性のアドバンテージを持たない実写表現は一体どのような意味を持つのか。それが今回、私が考えてみたい内容である。

※1)Adobe Illustratorなどのグラフィックソフトにて採用されている線の描画法。JPGなどのラスター画像と違い、計算式に基づきソフト上で描画される線のため、拡大、縮小した際にも輪郭の荒れが起こらない利点を持つ。

※2)映像においては、3DCGを使った人物描写のリアリティーが増して行く場合、ある一定のレベルを超えると突然その描写が人間に嫌悪感を抱かせるものとなり、さらにリアリティーを増し現実の人間と見分けが付かなくなればその嫌悪感か解消されるという、CG描写について人間への類似度とそのイメージへの感情的反応の関係を表すグラフに現れる顕著な特性の事を言う。

※3)『ウィキペディア日本語版』におけるエドワード・マイブリッジのページの項目「高速度撮影」「連続写真」参照。

”エドワード・マイブリッジ”.ウィキペディア日本語版.参照2017-04-17.

※4)静止画を素早く入れ替えることで、あたかも動いているかのように見せる器具。(”回転のぞき絵”.ウィキペディア日本語版.参照2017-04-17.)


宮永 亮 MIYANAGA Akira
宮永 亮 MIYANAGA Akira ポートレート

1985年北海道生まれ、京都市在住。 京都市立芸術大学大学院修了。平成23年京都市芸術文化特別奨励者。ビデオカメラでとらえられた実写映像素材のレイヤーを、幾重にも渉りスーパーインポーズする手法を用いて作品制作を行っている。それはモンタージュの様に素材の順時的羅列によるストーリーの提示ではなく、時間軸に対し、レイヤー構造という異なる方向を持つ軸をビデオアートに持ち込むことで、新たに合成されるなナラティブの枝を作品内に現出させようとすることであり、そして時間芸術の中での非時間性への模索でもある。主に現代美術の領域で、現代映像美術家としてビデオ作品、ビデオ・インスタレーション、スチル作品等の発表のほか、VJ活動やMV制作を行っている。 2015年には、作家事務所であり、映像/デザインプロダクションとして「ViDeOM」名義を立ち上げ、その代表・ビデオグラファー・映像編集者としてよりコマーシャルな領域へも目を向けている。

MIYANAGA Akira Official Site
http://akiramiyanaga.com/


2. 実写が持つ無限の闇

実写動画表現の最初期の作例、リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896)が最初に上映されたとき、画面奥から自分たちに向かってくる列車の動きに観客が圧倒され、部屋の後方へ逃げ出したというエピソードがある。実写動画は、この時点から我々の現実を拡張する可能性を示し続けている。逃げ出した人々は一体何を思い逃げ出したのだろうか。光る動画フレームのその外の闇にも、こちらを引き殺さんばかりに走り続けてくる列車を、確かに見たからではないだろうか?

動画のフレームは、その外に余白を持つ。CG表現では、それはシミュレートされた世界の中におけるカメラワークを意味し、後からいくらでも微調整ができる。この仮想世界は原理的には無限に画面外にも広がり続けていおり、後からカメラのフレーミングをやり直すことができるからだ。しかし実写は、撮影というプロセスを終えた時点でそのフレーム内に定着された以上の情報を持つことができない。フレーミングは、一回限りの不可逆なプロセスであり、もう後戻りはできない。実写動画の余白は、この不可能性において「無限の闇」となってしまう。広がる空虚の只中に、寂しく一つだけ配置されたフレームであり、そこ以外にはどこにも行く術を持たない。しかし、現代美術に触れたことのある方はよくお分かりだと思うが、このフレーム外の空虚さは、殊、現代美術表現においては非常に重要なのだ。それはなぜだろうか。

ある塵について相手に語り伝えたいと考えた時に「全て語り尽くす」、これが可能であるならば、理想的な伝達と言っても良いだろう。しかし現実に、例え小さな塵についてであっても、その全てを語り尽くして伝えることなど果たして可能なのだろうか。その形状、材質と組成、色、表面のミクロな構造や、内部構造、空間における座標位置、その誕生の時間、その消滅の時間、などなど、こう言った全ての語りうる要素を上げていけば、ほぼ無限に語り続けることができるだろう。しかも語っているうちにも、この塵は少しずつ、確実に時間の中で変化を続けている。

だから人間は、限られた時間の中で掻い摘んで語る、という方法を発展させてきた。主題の諸要素のうち、「さしあたり必要」と思われる情報をピックアップして伝えることで、概略を掴み、主題に対して「おそらく正解であろう」アクションを決定してゆくことで、危い生をなんとか紡いでゆく。実写動画は、長い間まさにこのような方法論に牽引されてきた。CG動画においても、それが何らかのコンテンツとして出力される際にはもちろんこういった方法論を踏襲する。だがこのCG世界における塵は、いかような角度からも、いかようなズーミングでも語りうる可能性が留保されている。理想的な伝達を準備するための方向性を持っている、ある意味欲張りな、「神の視点」のようなものである。

一方実写では、撮影時にレンズの前にあった状況によって、見える角度が制限され、レンズの性能によって被写体のスケールは決定され、得られたイメージから類推できる以上の情報を得ることは不可能だ。もちろん最近登場した「ライトフィールドカメラ」が持つ、イメージ内のフォーカス位置を任意に変える技術、及び光学的レンズを必要としない「レンズレスカメラ」といった技術などにより、実写撮影のプロセスは今後大きく変化する可能性をはらんでいる。しかし、少なくとも一つのカメラの一方向性の視点に絞った場合、これらはCGと実写を本質的に融合させるような類のものではない。

そしてCG、実写、どちらの立ち位置であれ、いや、現実的に人間がとり得るありとあらゆる視座においても、「この塵に対し全てを語ることは不可能」ということが、変わらぬ結論としてあるのだ。科学ならば全てを語れるだろうか。そうではない。科学は語り続けることで可能な限り「確からしい」実像を把握しようと努める態度そのもののことであり、語り尽くし得ないことへの十二分な自覚と常に共にあるものだろう。科学をもってしても私たちはまだまだ、全知全能の神には程遠いところにいる。


3. 「現代美術における「闇」の有効性

では美術はここでどういう態度をとるのだろうか。

一般的に美術は何か理想論的な、夢見がちな態度を取ると思われがちだ。全てを語りたいという熱情、偏執狂的な努力の末に作られる可能な限り高密度なテクスチャーや描写。無論それを追い求める作家もいるだろう。しかし話が殊現代美術になった時には、それは必ずしも正しくない。場合によってはむしろ、大きな誤りであること知ってもらいたい。少なくとも私自身が作品を通じて目的とすることは、「私から貴方への理想的な伝達」ではない。私はこの塵について可能な限りの情熱を持って説明を行う話者ではない。そうではなく、「貴方がこの塵について、何かを誰かに伝達しようとすることを促す」態度を選択する。そう言った社会的役割を担っている分野が、現代美術なのである。私と貴方のコミュニケーションはそもそもさほど重要ではない。それは貴方と誰かのコミュニケーションを促すことを大目的としている、触媒のようなものなのだ。

この立ち位置と目的に作家と作品を置くとき、CGのような、あるいはARにおける実写とCG融合体験のような理想的な伝達の可能性は時にマイナスに働き得る。主題に対する情報の多さ、説明可能性とでもいうべきその豊かさは、受け取り手の態度を硬直化しかねないからだ。一つの塵についてあらん限りの情報を羅列して行けば、その塵について、より正確に把握してゆけるように思える。しかし上述したように、全てを羅列してゆくことなどは不可能だ。むしろ情報を少なくする、あるいは見えにくくすることによって、貴方が主題を覗き込んで熟視する観察者となることを促す手法もある。 こういった意味において、よくできたCGの作り出すナラティブ(※5)は、必ずしも万能ではない。大きな制約を抱えた実写動画が、よりよく目的を達成することもままあるのだ。

ここにおいて、「無限の闇」は大きな意味を持ってくる。解答の設定されていないフレームの外側には、CGの描画可能性を超えた、無限の解釈可能性が担保されているからだ。実写動画の最初期のオーディエンスたちが、その反応において示したように。

※5)ストーリーのある表現形式のこと。


4. 作品への応用

私はこれまでに、実写素材のスーパーインポーズ(※6)という手法で作品を制作してきた。実は、実写のレイヤーを重ねるという手法に当初私が設定していた意味付けは、「三次元空間(現実)を二次元イメージ(動画)に落とし込むことで生まれる、現実に対する劣化コピーとでも云うべき不完全さを情報の隙間と捉え、そこに別の動画のレイヤーを重ねることで、画面の中に情報量を満たしてゆく」ということだった。その感覚は今でも根本に持ち続けている。しかし作家としてこの手法を続けてゆく過程において、フレーム外の無限性も、それに比肩し得るほどの大きな問題だという考えに至りつつある。

"MOVING Live 2016" YYBY + 宮永亮 ライブ映像
2016年11月6日(日) METRO[京都]

近年のVJアクト、特に直近の2回のMOVING Live(※7)においては、実写動画にキャプチャーされた素材イメージのフレームをあえて縮めて見せるという手法を試している(VJ活動については、現代美術としての動画作品制作の前段階における実験場という設定である)。映し出される動画は全て、私個人が方々をさまよい、ビデオカメラに収めてきた実写動画達だ。この点はこれまでの作品制作と違いはない。しかし、音声のボリュームに連動し、動画の矩形の上下あるいは左右の辺がクロップされるという効果を全アクト時間に渡って行った点は、今までと大きく違うことだった。

重要なことは、画面がクロップされて可視領域が減ろうが、あるいは完全な黒みになってしまおうが、動画は自体はそのバックグラウンドで流れ続けているということだ。つまり、縮められているのは飽くまでもフレームのみであり、イメージそのもののスケールには変化はない。オーディエンスがイメージを覗き込む窓そのものに制約を加えることで、フレームの外側の世界をライブ体験に取り込むということを、より積極的に行おうという意図を持った試みであった。これまで行っていた、私(作家)自身がレイヤーによってイメージに情報を積層するという行為をある程度制限し、オーディエンスの頭の中にその層を外在化させることを重視した。つまり、上述の意味においての現代美術的なアプローチに近付けたとも言える。

拡張ではなく、縮小すること。縮小することによって、拡張すること。空虚であるゆえの、充当可能性。制約や不足、不完全性や不可逆性、そういったものの中にも、実は多くの豊かさが隠れていることが、本稿を通じて少しはお伝えできただろうか。

無論(制作者とオーディエンスの別なく)旧来のフォーマットに寄り添ってさえいればその豊かさを享受できるとは限らないし、そのことは本稿の主旨ではない。CGなどの新たなテクノロジーが映像に参入してきた中で、「フィルムの味」(これからは「ビデオの味」?)と言った曖昧なロジックに頼ることも、ノスタルジーの袋小路に迷い込む危険が大きい。オーディエンスがその味を楽しむことは自由だ。しかし現代美術の仕事は、そう言ったノスタルジーに人々を誘い込むことのみで成り立つ浪花節であってはならない。

仮想世界のリアリティーの増大は、正直目覚しいものがある。だがあえて言いたい。新しいテクノロジーを使うことが、新しい表現、少なくとも現代美術の意味においてのそれに直結する道と断言することは出来ないのだ、と。新しいテクノロジーの出現により相対的に増した不自由さ、不完全さの制約ゆえに、つまりよりビビッドに現れてきた「無限の闇」ゆえに、実写動画はまた別の意義深いリアリティーを持ち始めている。私はそう考えている。

※6)ここでは複数の画面を重ね合わせて1つの画面を作る手法。

※7)MOVING LiveはMOVING実行委員会が主催・企画する映像作家とミュージシャンによるライブ・パフォーマンス・プログラム。これまでに5回開催されており、ミュージシャンとしてMerzbow、池永正二[あらかじめ決められた恋人たちへ]、志人[降神/Triune Gods]、青葉市子、映像作家として柴田剛、TAKCOMなど、様々な技法/ジャンルのアーティストが出演してきた。文中の「直近の2回のMOVING Live」は、"映像芸術祭 MOVING 2015"のオープニング・プログラムとして行われた"MOVING Live1 MOVING×night cruising"と、昨年行われた"MOVING Live 2016"を指す。

MOVING 2015 "MOVING Live1 MOVING×night cruising"
開催日:2015年2月8日(日)
会場:METRO[京都]
出演:Ametsub (Experimental Set) + 宮永亮、Madegg + TAKCOM、intext

"MOVING Live 2016"
開催日:2016年11月6日(日)
会場:METRO[京都]
出演:おやすみホログラム + 林勇気、DE DE MOUSE + Takashi Yamaguchi、YYBY + 宮永亮


実写映像が持つ無限の闇

Category: Digital Imaging





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