20, Nov 2013

「複製技術の演劇」私論

デジタルデバイスや特殊メイクを使用した演劇作品を制作するあごう さとし氏に、現在の創作活動における主題である「複製技術の演劇」について論じていただいた。なお、あごう氏は演劇の複製可能性を検証することを目的とした「パサージュ」シリーズの新作『-複製技術の演劇-パサージュⅢ』を2013年11月22日~11月24日(こまばアゴラ劇場/東京)、2013年12月20日~12月22日(大阪府立江之子島文化芸術創造センター/大阪)の期間上演する予定。

寄稿:あごう さとし(劇作家・演出家・俳優・ロボット演劇オペレーター)

1. なぜ一人でやるか

現在、「あごうさとし」という個人名で表現活動をしています。2011年に所属していた劇団が解散した時に考えたことは、「私は集団があるから、演劇をやっているのだろうか?」ということです。同時に、「どのような状況にあっても、私は演劇をやっていくのだろうか?」或いは、「芸術とは個によって始められるものではないのか?」ということを自分自身に問いかけました。そして、「折角一人になったのだから、どこまでやれるか試してみよう」と思い立ったのです。
一人で演劇活動をするといっても、一人芝居を上演するということではなく、複数人の登場人物がいる作品に取り組むことを目指しました。
そのアプローチの一つが「デジタルデバイスと生の身体の関係」です。作品創作の一助としてのデジタルデバイスではなく、相手役として存在することは可能か? ということを考えました。


あごう さとし AGO Satoshi
あごう さとし AGO Satoshi

劇作家・演出家・俳優・ロボット演劇オペレーター。
大阪府出身。
同志社大学法学部卒業。広告会社でコピーライターとして勤務。退職して、2001年、WANDERING PARTY の旗揚げに参加。第3回公演以降、全ての作品の作・演出をつとめる。2011年劇団解散後は、利賀山房で上演したイヨネスコ作「授業」を皮切りに、「複製技術の演劇」を主題にデジタルデバイスや特殊メイクを使用した演劇作品を制作する。昨今は、平田オリザ氏が手がけるロボット演劇のロボットオペレーターとしての活動も加わる。
本年7月31日より初の映像インスタレーション作品「nothing at all」をアテネContemporary Art Meeting Pointにて展示。2014年9月よりアトリエ劇研ディレクター(芸術監督)就任予定。

2010年度京都市芸術文化特別制度奨励者
2013--2014年度公益財団法人セゾンフェロー対象者

神戸芸術工科大学非常勤講師/京都造形芸術大学非常勤講師/天理医療大学非常勤講師/心斎橋大学講師

受賞歴
日本演出者協会主催「若手演出家コンクール2007」最優秀賞受賞
「利賀演劇人コンクール2012」奨励賞受賞

あごう さとし WEBサイト
http://www.agosatoshi.com


2. 「複製技術の演劇」という表現

私は現在「複製技術の演劇」を主題に、デジタルデバイスや特殊メイクなどを活用し、俳優一人あるいは出演者の無い演劇作品の上演をつづけています。その活動趣旨は、演劇作品の複製可能性を検証し、演劇の新たな上演形式を模索するものでもあり、演劇の本質的な構成要素は何か? 俳優とは何か? という一連の思索でもあります。最狭義の演劇の構成要件は、俳優ではなく有形、無形の「声」或いは「記憶」の存在であるという仮説の実証を試みるものでもあり、演劇は複製可能であるという論拠を探るものです。その結果として演劇作品の永遠性・同時多発性・創作者の大量生産などの新たな特性を創出する試みでもあります。


3. 演目の紹介

『しあわせな日々(第2幕)』 (利賀演劇人コンクール2012 奨励賞受賞作)
上演時間: 30分
作: サミュエル・ベケット
演出・出演: あごうさとし
会 場: 利賀山房(富山)
上演日時: 2013年8月

本作の主人公であるウィニーは記憶のみを語ります。記憶媒体であるラップトップパソコンがウィニーを演じるという着想の下、メディアアート的な手法を用いた作品となっています。「口」・「聞く者」・「ロッキングチェアー」など後期ベケットの演出手法を援用して描きました。
上演時間のほとんどはパソコン1台が演じました。ウィニーとウィリーが登場する最後のシーンで、生の身体とパソコンという存在がコミュニケーションすることの不可能性を表現する試みでありました。
しかし、関係者の観劇後のコメントは、「パソコンの存在よりも、実際に登場する生の身体に引きつけられた」というものであり、「劇空間において、デジタルなモノの存在が、まだ生の身体に拮抗してできていないこと」が課題となりました。

また、この上演で平田オリザさんと出会い、ロボット演劇のロボットオペレーターとして活動することになりました。このロボット演劇は、アメリカ・カナダ・スペイン・ロシア・台湾・インドネシアを巡り、私もアメリカ・カナダ・スペインへ同行しています。

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『しあわせな日々(第2幕)』 撮影:三谷正

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『しあわせな日々(第2幕)』 撮影:三谷正


連作「パサージュ」について

1935年に『複製技術時代における芸術作品』を書き残した、ドイツの思想家・文筆家ヴァルター・ベンヤミンの論を下敷きに、演劇の複製可能性を検証する連作です。
ベンヤミンは『複製技術時代における芸術作品』の中で、写真や映画という新しいメディアが既存の芸術にどう影響していくかを記しています。唯一であるからこそ、《アウラ》は存在し、複製できれば《アウラ》はなくなる。そして、芸術は自分たちの手の届くところへやってくる。複製できれば、全ての人たちが芸術家になれる。そう、ベンヤミンは語っています。

『-複製技術の演劇-パサージュⅠ』
上演時間: 40分
作・演出・出演: あごうさとし
会 場: カフェモンタージュ
上演日時: 2012年11月

『しあわせな日々』ででた課題を受けて、俳優のアウラは複製できるかという問いかけをいたしました。実寸大の映像のベンヤミンが、主人公となり、物語を進めます。
生のパフォーマンスは40分の上演時間中、ほんの5分程度のもので、通常の演劇作品における映像と生の俳優の役割を反転させた作品です。ある時間、主人公としての存在感を高めた映像のベンヤミンが最後に登場する生の身体のベンヤミンと存在として拮抗すれば、これは映像が俳優のアウラを複製したといって良いだろうという結論に導く目論見でした。これについては、各回にもうけたポスト・トークや観客の反応を見る限り、ある程度成功したと考えています。全ての人が、映像に重心を感じたとはならないものの、拮抗した登場人物として多くの方に受け入れられたのではないでしょうか。
戯曲の構成或いは、最終の映像を出力する方法によっては、更に改善できるものと考えています。逆に言えば、戯曲と演出で「映像存在」が演劇の骨を成立させることができるといえます。

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『-複製技術の演劇-パサージュⅠ』 撮影:三谷正

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『-複製技術の演劇-パサージュⅠ』 撮影:三谷正


『-複製技術の演劇-パサージュⅡ』
(鉄道芸術祭Vol.2 やなぎみわプロデュース「駅の劇場」招聘作品)
上演時間: 30分
作・演出・出演: あごうさとし
会 場: アートエリアB1
上演日時: 2012年12月

観客の身体が、劇空間を担えるかということを主題としました。演技そのものは30分間、生の身体で演じ、観客は駅のプラットフォームを模した舞台美術上の任意の場所で、観劇するという趣向です。お客さんの存在、気配、或いは照明や映像の光で壁一面に映し出される影は、駅で電車を待つ人々であり、ヒトラーの演説を聴く大衆であり、ベンヤミンにとりつく「せむしの小人」にもなるというものです。とてつもなく奥行きのある舞台は観客の存在によって、補完されました。
また上記に記したような効果は、観客のほとんどの方が、体感できるわかりやすいものであったろうと感じています。「体験型」と言うほどに、強い仕掛けではありませんが、劇空間を構成した存在であることは、間違いありません。
この試みの発見は、演劇の複製性についてデジタルデバイスといった技術の他に、観客の身体というところからアプローチできるのではないかと考えたことがきっかけでした。俳優とはまた違った、固有の身体性があるということです。この観客の身体性について、考えを深めるべく次の作品にとりかかります。

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『-複製技術の演劇-パサージュⅡ』 撮影:井上美葉子

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『-複製技術の演劇-パサージュⅡ』 撮影:井上美葉子


『-複製技術の演劇-パサージュⅢ』 (2013年新作)
上演時間: 30分予定
作・演出: あごうさとし
ドラマトゥルク: 仲正昌樹(金沢大学法学類教授)
上演予定: 2013年11月22日~11月24日 こまばアゴラ劇場/東京
2013年12月20日~12月22日 大阪府立江之子島文化芸術創造センター/大阪
公演情報: http://www.agosatoshi.com/passage3

本作品の命題は、「演劇は複製可能である」という結論を導く為の手法を構築することです。生の俳優のパフォーマンスはありません。パサージュⅠ・パサージュⅡで活用した、映像・照明・字幕・造形物などの効果を組み合わせて、ヴァルター・ベンヤミンの最期の30分を描きます。そして最大の要素は観客の身体です。演劇の構成要素その物を解体することで、「描かれるべき演劇」の残骸を展示します。分解された要素は、物として語りはじめ、構成されたであろう演劇を物語ります。演劇的な空間と展示的な空間の狭間にうかぶ、実験的なメディアとなります。観客は、物語の主人公であるベンヤミンにとりつく「せむしのこびと」として設定されます。映像で映し出される「ト書き」によって、「せむしのこびと」は逐一表現され、「声」或いは「映像」のベンヤミンと有形・無形の対話を重ねていきます。劇は途中、寸断され、演劇空間は一定時間、展覧会場に切り替わります。観客は、パサージュを遊歩するベンヤミンに成り代わってそのガラクタの中をさまよい歩き、展示された「物」との対話を重ねていきます。展示時間を経て、演劇空間に切り替わると、観客として多数に分裂したベンヤミンは、自分の存在が、身体にあるのか、声にあるのか、あるいは字幕にあるのか、投影される映像なのか、定かにならないまま、言葉の海の中へ、自意識と共に消えていくという筋立てです。

なぜここでは俳優の身体を用いないのか。勿論、演劇作品自体の複製を可能とするには生の俳優という要素を切らなければなりません。積極的な理由としては、哲学という死んだ文字群を、死んだままに考え、表現するには、その空間を生きない身体が必要だからです。俳優の身体を用いると、どのような演出を用いても、その劇空間を「生きよう」とします。しかし、観客にはその意志もなければ、訓練の痕跡もありません。元来、観客とは、闇に沈む「目」であり、劇場内においては、最も忘れられた存在であります。その闇に沈む物が、なんら目的意識無く舞台上にあがるということは、正にベンヤミンのいう遊歩者(フラヌール)そのものです。劇空間において特異な存在である遊歩者は、戯曲では救いきれない、無形の声をもって存在することになるでしょう。この無形の声へのアクセスこそがベンヤミンのいう「全ての記憶(声)の救済」という哲学的テーマに合致していきます。


4. 終わりに

俳優を登場させずに、演劇を構成するのは、非常に困難な作業であります。俳優とはやはり、演劇作品に「生命」をふきこむこの上ないメディアである、という自明のことを改めて確認しながらも、俳優が出ないことでできる表現の原野というのも広がっているように感じます。
この一連の取り組みが、来年以降のテーマである「読む演劇」における一つの指標となればと考えています。

現代芸術は様々な分野のボーダレス化が進んでいます。私の今取り組んでいる作品も俳優の身体が登場せず、予め用意された演出効果(システム)によってのみ、観客に劇的体験を与える演劇です。それでは美術作品と私の演劇作品の境界はどこにあるのか? それは絶対的な観客を想定しているか否かだと思います。美術作品の場合は、そこに観客が居なくても、美術作品として存在することは可能ですし、価値が上がることもあります。しかし演劇は、やはり観客が居なければ作品として成立しません。必ずしも一回性の価値としての「俳優の身体」を必要としなくても、演劇には「観客という身体」が必要なのです。


「複製技術の演劇」私論

Category: Digital Imaging





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