14, Nov 2013

KYOTO EXPERIMENT 2013 レビュー 寄稿:村上 潔/榊原 充大(RAD)
She She Pop 『シュプラーデン(引き出し)』/チェルフィッチュ『地面と床』

9月28日から10月27日の期間、京都で開催された国際舞台芸術祭 "KYOTO EXPERIMENT 2013"。AMeeTでは本フェスティバルを2回に分けて特集する。後半となる本記事では現代女性思想=運動史を専門とする村上 潔氏によるShe She Pop 『シュプラーデン(引き出し)』へのレヴューと、建築リサーチを専門とする榊原 充大氏(RAD)によるチェルフィッチュ『地面と床』へのレヴューを掲載。普段は舞台芸術以外の分野で活動する2名に、それぞれの専門分野からアプローチした批評を展開していただいた。

『シュプラーデン(引き出し)』 KYOTO EXPERIMENT 2013 photo: Ayako Abe

差異の整序と個の疎外、そして女の物語
――She She Pop『シュプラーデン(引き出し)』

寄稿:村上 潔

今だ ママかつて、女として正確に自伝と呼べるものを書いた女は私たちの中にはいない。女たちは、自分を対象物として見るように訓練され、「他者」の位置に自分を据えて、自らを疎外するようにと躾けられる。そのため、私たちが手にする物語は、女を映し出すことはない。それは、はなから、物語などではあり得ない。むしろ、それは物語になっていく物語であると言えるであろう。物語が物語になることが出来るためには、女たちによる読みの絆を通さねばならない。「他者」の物語とは、他の女たちに読まれる物語、他の女たちについての物語、他の女たちによって語られる物語である。こうした「他者」の物語を通して、女たちの物語は物語になっていく。なぜなら、他者の物語が、私たち女性自身の自伝になるためには、今の状況においては、女性側がそれを所有する必要があるからである。(Felman 1993=1998: 24 *太字は訳文による)

She She Pop『シュプラーデン(引き出し)』は、まず第一に差異の物語である。だが、それは本来ある差異をそのままのかたちで提示している、ということではない。
本作は、東ドイツで生まれた女性3人、西ドイツで生まれた女性3人の計6人が、舞台手前に置かれた多様な媒体の素材を媒介にして、自らの記憶を語り、アイデンティティや価値観を披瀝(ひれき)しあうことから生じる抜き差しならない葛藤をユーモラスに提示し、その意味を問うものである。

そこでは、東‐西(ドイツ)というステレオタイプな差異を相対化するため、細やかな、密かな差異が次々と引き出される。それは初めとりとめのないものとして発信されるが、やがてとても巧みに整序される。
差異はまず、ある女が残した記録を、別の女たちが「読む」ことで現前される。そして、読まれた内容に即して、向き合う一対の女(2人)が問い、答え、語り合い、その場で新たに差異が(各人の口から)引きずり出されてくる。さらに、そこで生まれた差異を、別の女たちが引き継ぎ、差異が共有されると同時に新たな差異をめぐる葛藤と共鳴が呼び起こされる。

書いた女と読む女との差異、問う女と答える女との差異、問い‐答える女たちと、別の女たちとの差異。「東の女たち」と「西の女たち」との差異。「東の女たち」のなかでの、「西の女たち」のなかでの差異。それらすべての位相における差異が、重層的に重なり合い、ある点では――ときに音楽の力も借りて――輝くような共鳴の光を放ち、ある点では行き詰まりの不和が生まれる。開放感と閉塞感が飽くことなく繰り返し訪れる。
しかし、舞台上で生まれる差異の重層構造は、けっして混沌としているわけではない。驚くほど見事に、差異は整序されていく。共鳴も不和も完全に計算されたかのように。

女たちは、躊躇なく差異を引き出しあい、感じあい、楽しみ、反発し、そしてすべてを殺さずに整序することで、「イデオロギー的分断」や、「国家間対立」というアプリオリな前提概念を、手際よく、軽快に無効化してみせる。女たちはひとつひとつの差異を、さまざまな規定要因に捕らわれることなく受け止め、自らのなかに取り込み、他者とのあいだをつなぐライン上に位置づけることができる。


村上 潔 MURAKAMI Kiyoshi
村上 潔 MURAKAMI Kiyoshi

1976年、横浜市生まれ。
2002年から2005年まで、『remix』誌に、映画・音楽に関する記事を寄稿。その後、『音の力 〈ストリート〉占拠編』、『VOL』誌などに寄稿。
2009年、立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程修了。現在、立命館大学産業社会学部非常勤講師。専門は、現代女性思想=運動史。
著書に『主婦と労働のもつれ――その争点と運動』(洛北出版、2012年)など。論文に「「三十娘」の利害と「家」の瓦解――資源と威厳の確保をめぐって」(『現代思想』41-12、2013年)など。

村上 潔 紹介ページ
(「生存学」創成拠点 arsvi.com WEBサイト内)
http://www.arsvi.com/w/mk02.htm


他者、他者性を損なうことなく生存させたり活気づけるに十分なものを女性たちは自分の内に持っています。彼女たちは差異を、彼女たちの差異を肯定するに十分なものを自分の内に持っています。この差異は何によっても破壊されず、それどころか肯定され、それも異常とも思えるほど肯定されるのです。(Cixous 1976=1993: 68-69 *太字は訳文による)

ではこの舞台は、差異をフラットに、ポップに整序する手際のよさを観客に見せつけ、その才知と力量に対する感嘆を引き出すだけのものなのだろうか。そうではない。
女たちは差異を整序することによって、自らと他者との関係を構築する。が、それは単純に自らの存在認識の「安定」に結びつくわけではない。自分と他者とのあいだの差異、自分のなかに棲みつく他者に対する差異は、それが自覚されればされるだけ、「わたし自身」という個をさまざまなかたちで揺るがす。つまり、ひとりの女それ自身は、差異の関係性の網の目のなかで、つねに不安に付きまとわれる。

まず、場に差異を生み出す、記録を残した女、女たちから「読まれる」対象である女の姿は、見えない。さらに、ひとりの女が対話をする相手の女は、目の前に見えていて、差異も認識できて、ある局面では「わかりあえる」相手ではあるものの、真正面から向き合っているがゆえに絶対的な他者であることを強く意識させられる。さらに、自分たち(2人)が話しているあいだ、他の2ペア=4人の女には照明が当たらず、同じ空間にいるにもかかわらず、ほとんどの時間は「見えない」存在としてある。

よって舞台上のすべての女たちは、「個」である自分の不安とその疎外状況に、否応なしに向き合うことになる。それがもっとも象徴されているシーンが2度ある。「東」の女たち3人だけが舞台前方に集まって、「西」の女たちの行動・意識の不可解さを笑う場面と、その設定を逆にした場面である。その間、嘲笑されている側の女たちは、各人が、自分の席に座ったまま、自分で自分の顔を(アップで)ビデオカメラに写し続ける。その顔の映像は、中央のスクリーンに3つ並列されて――スクリーンには過去のドイツのさまざまな部屋の室内風景を写した写真が(一定の時間で切り換わるように)投影されており、その部屋の壁に掛けられた額縁に各人の顔が収まるように――投影される。

ここで注意したいのは、嘲笑をする側は3人いっしょに固まって気ままに話しているが、 される側はそれぞれが分断され、完全な個の状態でいて、さらに自分の顔だけを自分自身で写すという行為に専心している――できすぎたほどの疎外状況に身を置く――こと、そしてその「個」の行為を(交替で)6人全員が行なうということだ。

photo: Benjamin Krieg


つまり、この舞台上では、誰もが等しく、不安と疎外を経験する。自分自身の疎外を自分自身が(ビデオカメラで)見つめ、そしてスクリーンを通して観客に見つめさせる――その意味では、女たちは舞台内においてだけでなく、舞台外からも疎外される。
差異を認識し、整序したうえで、個の不安と疎外を経験する。この2段階を経ることで、自‐他/個‐共の関係性が明確に、普遍的なものとして客席=他者に投げかけられるのだ。ここに本作の(もっとも評価されるべき)「厚み」がある。

では最終的にこの作品で示されるもの――個の不安と疎外の先に見出せるもの――は何なのか。それは「女の物語」である。
個の不安と疎外は、誰をもってしても解決できない。しかし同時に、解決しようのない不安と疎外は、それを抱える個々の女をまさに「女」として規定する。そこで、不安と疎外の存在ゆえに、差異にもとづいた女同士の関係性の発露=「女の物語」なるものが可能になるのである。

女たちは「私」というとき、さわさわと鳴る葦の集落のごとき音をひとすくいしている。自己は他者の集合体だ。外側へむかって自分を暴発させようとするとき、内部の葉群は切先へむかって結集する。もしその発現への慾望を一本の茎を抜くように、本来分別されない内的自他をふるいわけて外界が引くときは、私=女はより深い侮蔑にさいなまれる。そして多かれ少なかれ女たちは誰でもその裂かれた傷を握って生きる。(森崎 [1963]1970: 116)

女は、疎外された存在であるがゆえの共同性を構築することができる。これは一見して矛盾である。しかしこの矛盾そのものが、「女の物語」が絶えず(いたるところで)生み出されるゆえんである。

本作で観客が目にするのは、差異の整序ならびに疎外された個の共同性によって展開される、「女の物語」の生成過程――物語に〈なっていく〉さま――である。ここに至って思い起こす。本作の冒頭で導入として長々と語られるのは、過去のひとりの(疎外された)女の「物語」なのだ。過去の女の疎外は、現在において共有され、「物語」となる(※1)。
「女の物語」は、つねに、現在を生きる複数の女たちによって、記録され、読まれ、生成され続けるのである(※2)。

『シュプラーデン(引き出し)』 KYOTO EXPERIMENT 2013 photo: Ayako Abe

※1)上述した、スクリーンに投影された室内写真にリアルタイムの顔の映像が重なる演出は、まさにそれを象徴している。

※2)そしてもちろん、本作は、舞台を見つめるすべての「女たち」に対する、「物語」 の共有の問いかけ=誘(いざな)いである。

文献

Cixous, Hélène, 1976, "Le Sexe ou la tête?," Les Cahiers du GRIF, 13: 5-15.(=1993,松本伊瑳子・藤倉恵子・国領苑子編訳「去勢か斬首か」『メデューサの笑い』紀伊國屋書店,49-79.)

Felman, Shoshana, 1993, What Does a Woman Want?: Reading and Sexual Difference, The Johns Hopkins University Press.(=1998,下河辺美知子訳『女が読むとき 女が書くとき――自伝的新フェミニズム批評』勁草書房.)

森崎和江,[1963]1970,『非所有の所有――性と階級覚え書(新装版)』現代思潮社.

公演情報
公演名: She She Pop 『シュプラーデン(引き出し)』
公演日時: 2013年10月18日 (金)- 10月20日(日)
会 場: 京都芸術センター 講堂
上演時間: 120分
公演ページ: KYOTO EXPERIMENT WEBサイト 作品紹介ページへ

※本記事執筆者の推薦は京都文化芸術コア・ネットワーク による。


『地面と床』 KYOTO EXPERIMENT 2013 photo: Misako Shimizu

問いを立体化する舞台装置
――チェルフィッチュ『地面と床』

寄稿:榊原 充大

「『地面と床』の舞台は、日本語がほとんど誰にも伝わらなくなった近未来の日本。言葉と故郷を失いつつある社会に生き、記憶と忘却の狭間で揺れ動く〈生者〉たちと、彼らを憂う〈死者〉の利害が対立する。」(KYOTO EXPERIMENT『地面と床』作品紹介文より抜粋

『地面と床』の舞台装置は、舞台面から10センチ程度浮かせた「面」、その面の上にある「円盤」、字幕を映すための十字の「スクリーン」、上手側に置かれた下手を向いた大きな「鏡」、小道具の「椅子」、特殊効果の「煙」という抽象的な要素で構成される。

チェルフィッチュの作品において舞台装置はこれまでも抽象的なものとしてあった。地面から数十センチの高さに仮想の平面を想定し、「どこにでもあるファミレスのイスとテーブルのセットをその高さで切断」した『フリータイム』、大きな白いボックスを宙に浮かせた『私たちは無傷な別人である』など。ちなみに、いま挙げた二幕の舞台装置はトラフ建築設計事務所 による設計だ。

トラフの鈴野浩一はチェルフィッチュ主宰岡田利規との対談において、こう語っている。「チェルフィッチュの舞台はミニマムで人の動きが面白い舞台だから、何もなくっても成立するとは思います。だから邪魔はしたくない。」(Interview:チェルフィッチュ×トラフ建築設計事務所、舞台という空間

ところで、私は「演劇」を専門とする人間ではない。普段は建築や都市をリサーチの対象に据えた活動を続ける、建築を専門とする人間である。建築や都市なるものを専門家だけのものとせず、関心を持った人たちに関与の回路を用意したい。そういう思いを背景にして、主体を問わない、いわば「建築的なアイデア」の生かされ方にとりわけ関心を持っている。例えば、いかなる空間が、どんな力学のもとに、どう生まれ、どんな効果を生み出しているか。そういうわけでこの文章は、『地面と床』の劇空間について、私の専門における問題意識と、上のような観点とともに考えていくものである。

この劇をめぐって、劇空間と、タイトルにもなっている「地面と床」という二種類の空間がある。そしてこの劇では、「地面と床」が象徴する「問いかけ」を、劇空間が補足し、強化するという構造をとっているように見えた。本レビューでは、劇空間が「問いかけ」に対してどのような影響を及ぼしているかを明らかにしていきたい。


榊原 充大 SAKAKIBARA Mitsuhiro
榊原 充大 SAKAKIBARA Mitsuhiro

1984年生まれ、愛知県出身。京都市在住。建築家、リサーチャー。神戸大学文学部芸術学科卒業。2008年に建築的領域の可能性をリサーチするプロジェクトRAD(Research for Architectural Domain)開始。
レクチャーシリーズ「QueryCruise」、建築展覧会「rep」、町家改修ワークショップの管理運営、地域移動型短期滞在リサーチプロジェクト「RESEARCH STORE」、地域の知を蓄積するためのデータベースづくりなど、「建てること」に留まらず建築的知識の活用を行う。


1. 「受精」と「着床」

六幕からなるこの劇では、それぞれで極めて「具体的な話」がはっきりとした言葉で語られる。「母はもういない」「日本語はほぼ誰にも伝わらない言語になっている」「日本に見切りをつけて外国へ行く」「仕事が見つかった」「兄に借りていた金を返す」など。そして他のチェルフィッチュの劇と同様、言葉と動きの「受精」は観客にゆだねられている。

ここで言う「受精」とは、2010年に発表された岡田の著作『コンセプション』の中で繰りかえされる、チェルフィッチュの演劇を考える上で外すことのできないキーワードだ。演者の言葉と動きのむすびつきを、演者のなかで結実させてはならない。つまり動き言葉との「受精」を演者側ではなく、客側にゆだねるべきだ、ということ。動きの意味を規定してしまうほど言葉の力は強い。では、言葉と動きのつかず離れずの状態をいかに実現するか、ということがその旨になる。チェルフィッチュの動きが何となく他と違う理由は、リアリスティックに何かを表象すること、を避けるためだ。

「受精」をスムーズに観客にゆだねるためには、おそらく、劇空間における「ノイズ」はなるべく少ない方がいい。冒頭で紹介したトラフの鈴野が「邪魔はしたくない」と言っていた通り、舞台装置が舞台上の状況とピッタリ一致しているか、あるいは舞台上にほとんどなにもない方が、観客は言葉と動きにより集中できるはずだ。

でもそういう選択はこの劇ではなされていない。そう考えるきっかけとなったのが、上手側に置かれた大きな鏡だ。岡田自身は今作の舞台装置を能と同じ形式にするため、「下手側のみの出入りにしたかったから置いた」と語っているが、ではなぜ舞台の境界として鏡を選択したのか?

『地面と床』 KYOTO EXPERIMENT 2013 photo: Misako Shimizu

鏡によって空間を広く「見せる」というねらいであればまだ分かる。少なくとも、なぜその鏡がそこにあるのかは分かった気になる。でも、この鏡は観客の方を向いていない。ゆえに、この鏡は観客に何かを「見せる」ことには役立っていない。強いて言えば、演者に対して演技する自分の姿を見せている。いきおい、自分を見ている演者を見せる、という間接的な形で観客に影響を与える。

この鏡は、その表面に映っているものを見せているのではなく、そこに映し出された別の空間がある、ということを観客に示唆する。それによって「見る/見られる」の関係はより立体化され、抽象的な「ノイズフリー」の劇空間が、より「ノイズフル」なものに変わる。意味のようなものを収斂(しゅうれん)させる対象としての空間でなく、それを開いていくという意味での「ノイズフル」な空間が、鏡によって生み出されている。

印象に残るシーンがあった。「弟」が「兄」に借りていた金を返すシーンだ。そこで弟は極めて具体的な動作として、封筒に入れた金を差し出す。ただ、兄は差し出される金の側にはいない。実際には、弟はまさに鏡に映る自分自身に向かい合っているのだ。もちろん、鏡の位置から、鏡の向こうの弟の姿が私たちに見えるわけではない。ただ、それだけでも、この「借金返済」というシーンはそれほど明白なものではなくなる。この横を向いた鏡によって、いま観客としての自分が見ている劇空間がひとつではなくなるような感覚があった。

観客の中で言葉と動きの「受精」が起こり、そこで浮かび上がるシーンに空間が重なることによって、こう言ってよければ「意味のようなもの」が見えてくる。「受精」にこじつけて言うと、そういう「着床」のプロセスが、この劇にはおそらくはある。しかし、その「着床」が起こる空間は、劇中でははっきりとしたものになされていない。というよりも、意識的にシーンと空間が連続しないように演出されていると感じるのだ。

『地面と床』 KYOTO EXPERIMENT 2013 photo: Misako Shimizu


2. 縁側なき時代に

「死者と生者の利害が対立する事態を見つめるために、この作品をつくりました。双方の利害関係の調整のために、もっと多大な〈外交的努力〉が払われるべきではないか、なんてことを最近ときどき思うのです。わたしたちはその努力を、ずいぶん怠っている気がします。」(岡田利規「クンステンのための「地面と床」ノート0509」

この劇では、岡田が言うところの「生者と死者との外交」なるものが問われている。それゆえ、そこには二者間の関係性がある。そしてその関係性を背景にした空間がある。この演劇は、そうした「外交関係」から生まれる空間をめぐる政治的な問題について語っているように感じた。

先に触れた弟と兄の他に、亡き母、兄の妻、夫婦のかつての友人という、五名の登場人物によってこの劇は演じられる。亡き母が持つ「死者の、忘却にあらがう権利」を兄の妻は許さない。それゆえ兄の妻は亡き母を弔わず、「残されたものたちに対して求めすぎだ」と言う。対して、亡き母はこの女のせいで長男と自身の交流が妨げられていると感じている。「私を思ってくれるのは次男だけだ」と。この二人の女の間で交流らしきものはない。兄の妻がそれを避けるからだ。それゆえ、彼女はあたかも二人が横断できない異なった空間にあるかのようにふるまう。

劇中では「死者が眠るところ、まだ生を受けていないものがいるところ」として「地面」が示され、対照的にいま生きる人がいるところが「床」ということになる。それが『地面と床』という、この劇のタイトルの謂うところだ。「死者と生者の外交」とは、ここにおいて、「地面」対「床」的な、二者間の陣取り合戦ともとらえることができる。「ここからここまでは死者の陣地」とはっきりと線を描き、そこを排除するという具合に。

ただ、その「地面」と「床」は、今回の抽象的な舞台装置によってきっちりと表されるわけではない。賭けられている側の空間が宙ぶらりんになっているから、永遠に終わることのない陣取り合戦のようなことが繰り返されているようでもある。

ここで、建築の観点から「地面」と「床」について考えてみたい。言うまでもないことではあるが、地面と床とを分けるのは、いまも昔も建築物の役割としてある。人と外敵とがともにある地面から、自分たちが安心して暮せる床を独立させるというふるまいは、遠い祖先を遡らなくとも、そもそも「なぜ人が家に暮すのか」ということに対する大きくかつシンプルな理由のひとつとして、ある。

しかし、日本の慣習的な住居においては、「地面と床」という対立は、上の比喩でイメージされるような「外と内」という対立とイコールになるわけではない。建築は地面と床とを隔てる装置であるわけだが、外と内、パブリックとプライベートとの境界はそれほど明確であったわけではないのだ。その象徴が、「縁側」という中間領域だ。家の内側と一続きの床面を持ち、屋根に覆われているけれど、常設の壁面を持たない空間。

外でもあり内でもあるこの「グレーゾーン」は、西洋の石造りの建築には見られない。パブリックな中に自らのプライベートを築いていく、という「西洋的」な考え方にとって、柱、床、屋根で成立し、可動式の襖などで空間を仕切るという曖昧な日本住宅の形式自体が異物としてあった。

「西洋的」な生活文化が浸透し、床座が消え、庭が消え、襖や雨戸が消えつつある現在の日本では、縁側の持っていた「意味」は薄れつつある。古くからある住宅を訪れる機会があるときに確かめてみてほしいのだが、先祖の仏壇が備えられている「仏間」は、基本的に縁側から最も近いところにあることが多い。日本の慣習的な住居において、地面と床とを分ける中間領域は、死者と生者との交易点として含み込まれていたのかもしれない。冠婚葬祭を行うための空間が日常の中に位置づけられていた、ということを考えても、「縁側を持つ住宅」という形式にとって、死者は比較的近いところにいたのだろう。

そんな「縁側を持つ住宅」は、現在、取り壊しや放棄の対象になっている。住人のプライベートを確立させるような生活習慣や、住宅を巡る制度的、経済的な問題といったやむを得ない現実がその背景にはあるわけだが、それは同時に、日常の中に含み込まれていた死者と生者との交流の機会が失われつつある、ということでもある。しかし一方で、「仏壇があるから」という理由でその住宅に住み続けている、という人ももちろんいる。そこがたとえ物理的に住むに適さない場所になったとしても、そうして自らの住居を離れない人もいる。それは住宅の問題でもあり、「住み方」という意識の問題でもある。

今回の演劇では「日本語が失われつつある日本」が舞台となっていた。そこで「日本語が失われること」が当たり前になっていたように、現在の日本において、誰かにとって極めて切実な「縁側が失われること」が、その他多くの人たちにとってはそれほどセンセーショナルなことではなくなっている、と置き換えることもできるかもしれない。

その比喩を延長するならば、この劇はそういう「縁側なき時代」の死者と生者との関係性を問うているものであるように感じるのだ。


3. 問いが空間的に立体化されている

「縁側なき時代」もひとつの背景とするだろう今回の演劇は、当然のことながら、「私たちは死者と外交的努力を怠っている」という注意喚起にのみ結実するわけではない。そうではなく、「死者と生者の外交」をめぐる問いがそこで生み出されている。それらの問いは、「死者と生者の外交はどうあるべきか?」「死者は敬うべきか?」などのように、あらかじめパッケージングされていない。

そうした問いに対して、劇空間は、答えを出さず、回答の手助けもしない。一方で、問いを問いのまま投げるようなこともしない。いわばその問い自体を補強し、「答えを安直に見つけないようにする」という能動的な姿勢がそこにある。それこそが、いま私たちが生きている世界がどのような世界であるか、をほのめかす。私はその能動的な問いの姿勢に、現在的な重要さを強く感じる。

先に述べた「終わりなき陣取り合戦」の比喩を繰り返すと、この劇空間こそがその勝敗をあらかじめ決めないための仕組みだと考えられる。陣取り合戦ではなくす、でもなく、勝ち負けをなくす、ということでもない。「外交」が問われているが、「正しい外交」や「正しい人物」を「ある」とも「ない」とも断定せず、安易な表象を避ける。そういう仕組みがここでつくられているように感じた。

言い換えると、この劇『地面と床』においては、問いが空間的に立体化されているのだ。

その際に重要な働きをするのが、舞台上に置かれた鏡だ。一章でも触れたように、舞台という限定された空間の境界を明示するために鏡が置かれているにも関わらず、その鏡の表面に映る別の空間によって、劇空間自体の「領域」が拡散している。「受精」が演者から観客にゆだねられていたように、この劇では、「着床」を舞台側ではなく観客側にゆだねるような構造が結果としてもたらされているともとれる。

タイトル、演者、言葉、動きといった要素とともに生まれる劇空間のなかで、ひっそりとしかし確実に「問われるべきこと」が待っている。チェルフィッチュの今作でつくりあげられた劇空間は、そういう問いの機会に捧げられた空間であると感じた。

『地面と床』 KYOTO EXPERIMENT 2013 photo: Misako Shimizu

公演情報
公演名: チェルフィッチュ 『地面と床』
公演日時: 2013年9月28日 (土)- 9月29日(日)
会場: 京都府立府民ホール アルティ
上演時間: 90分
公演ページ: KYOTO EXPERIMENT WEBサイト 作品紹介ページへ

※本記事執筆者の推薦は京都文化芸術コア・ネットワーク による。


KYOTO EXPERIMENT 2013 レビュー 寄稿:村上 潔/榊原 充大(RAD)
She She Pop 『シュプラーデン(引き出し)』/チェルフィッチュ『地面と床』

Category: Feature





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