
10, Aug 2010

----「Trouble in Paradise/生存のエシックス」展の企画はどのように始まったのですか?
発端は、2年半ほど前です。当時、僕はまだアメリカにいたのですが、京都市立芸術大学(以下、京都芸大)から、130周年にあたり、「何か新しいプロジェクトを組めないか」と相談を受けました。それなら、今までにない計画を発案したいと考えて、プロジェクトチームをつくったのです。
130周年というのは、興味深いキーワードでした。今から130年前は明治初期で、琵琶湖疏水ができたり、万国博覧会に初めて参加したりと、近代日本が土台をつくっていった時代です。そういったできごとを今、新たに見つめ直して、次の世紀への提案にしたいと、まず考えました。会場となる京都国立近代美術館も、琵琶湖疏水がそばに流れていますしね。
次に考えたのは、教育機関が社会とどう関わっていくのかを提案しようということでした。大学機関が関係したプロジェクトですから、研究や教育の今後の方向性を示すような、萌芽的な要素を大事にしたいと考えました。単に、アーティストを集めただけの展覧会にはしたくなかったのです。
プロジェクトの母体としたのは、宇宙航空研究開発機構(JAXA、旧宇宙開発事業団 NASDA)と京都芸大が1996年から2004年に行っていた「宇宙への芸術的アプローチ(*1)」という共同研究実験です。その時の宇宙実験で得た成果をもとに、今の地球上の問題をちょっと違う角度から眺めてみて、生存すること、この世に生きることへの新しい提案をしてみたいと考えました。例えば、社会や政治の問題も、新聞やメディアの視点とは異なり、宇宙からという、ものすごく引いた視点で眺めてみたら、違うものが見えてくるんじゃないかと思ったんです。
(*1)宇宙への芸術的アプローチ 共同研究成果報告書
http://iss.jaxa.jp/utiliz/spaceculture/report/aas/
----各分野の境界線を越えた、壮大な視点ですね。プロジェクトは具体的にどのように進めて行かれたのですか? 立ち上げていくにあたり、文部科学省日本学術振興会の「科学研究費補助金」に応募しました。申請時につけた展覧会のタイトルは「Creative Engagement --宇宙から地球へ、芸術のアナザーモデル--」。計画を進めていく段階で僕たちが大事にしたのは、芸術というものを既成の領域としてとらえるのはやめようとしたことです。学際的でも横断的でもない「脱領域的」なアプローチで、さまざまな角度から芸術を検証しようと考えました。
----脱領域的アプローチとは、どういうことでしょうか? 例えば、領域を「箱」だとすると、脱領域的というのは、お互いが入っている箱から一度みんな出てみましょう、そして、箱から出たみんなが出会える場所をつくりましょう、ということです。その「箱から出たみんなが出会える場所」を提案すること自体が、新しい創造的実践の可能性ではないか、と。既存の芸術の文脈からちょっと外して、新しい枠をつくってみると、医学、環境問題、宇宙など、それぞれの問題を扱う研究者の方々と僕らが同じ立場に立って、何か新しいことが始められるのではないかと思ったんです。その試みを僕らは、「Creative Practice」と呼んでいました。
----今までにない、おもしろいアプローチですね。プロジェクトに関わっている専門家たちのジャンルは、多方面にわたりますね。
そうです。生命倫理、医療、環境、宇宙、それぞれの専門家に関わってもらうことができました。例えば、京都大学の人間健康科学科には、科学研究費補助金の申請が通ってからすぐにアプローチしました。人間健康科学科は新しい考え方で医療をとらえていて、患者を治すことが目的ではなく、病気を人生の一部としてポジティブにとらえています。そうすると、病気とどうつきあっていくかという方向に視点が変わって、介護や看護など医療の問題すべてを含めてポジティブに考えていける。これまでの医療のあり方は、Cure(治療)とCare(世話)の2つしかなかったんですが、人間健康科学科では、そこにコミュニケーションやクリエイティビティなどを取り入れて、総合的に人間をとらえなおそうとしている。そういう新しい学科なら、僕たちのことを理解してくれるんじゃないかと思ってアプローチしたんです。
人間健康科学科とのプロジェクトがうまく展開し始めてからは、京都大学と京都芸大それぞれにプロジェクトチームをつくって、2大学合同で月に1回勉強会を開きました。最初は共通言語がまったく違うので、どうやって接点をもって話を進めていくかが大変で、スタートして半年間は本当に苦しかったです。でも、進めていくうちに、ひょっとすると専門領域を越えた人とコミュニケーションすることで、お互いの知見が広がったり新しい発想が出てきたりするんじゃないか、と希望がもてるようになりました。すると、次に全体をシャッフルして、「AさんとBさんのコンビで何か新しい提案をしてもらえませんか」というようにグルーピングをして、プロジェクトをまとめていく流れにもっていけました。それが第2段階。そして最後に、いくつかのプロジェクトごとに美術館展示での可能性を考えて、具体化していきました。

京都市立芸術大学構想研究室准教授。イェール大学大学院美術専攻修了後、カーネギーメロン大学助教授、ミシガン大学准教授を経て現在に至る。対立する諸概念の考察を通して、芸術・医療・生命・環境に関する研究と制作を行っている。また、アメリカ、ドイツ、オランダ、チリなど海外の美術館との連携で、多角的な視点で多くのアートプロジェクトを展開するほか、国内外の優れた研究機関や大学との協力で自己・プロセス・システムほか、社会に関わる新たな芸術教育のありかたについての研究と実践を行う。
Trouble in Paradise/生存のエシックス
(京都国立近代美術館)
http://www.momak.go.jp/Japanese/
exhibitionArchive/2010/381projects.html
——ところで、「Trouble in Paradise/生存のエシックス」というタイトルはどこから? まさに字の通りなんですが、いろんな困難がある中で未来に希望をもつ気分もあるという、今の世の中のことを「Trouble in Paradise」としました。その言葉で問題提起をしておいて、次に「生存のエシックス」と。エシックスは倫理や道徳という意味ですが、堅苦しい倫理を指しているわけではありません。一時期、日本では「勝ち組/負け組」とか色分けする状況があって、どうやって生き残っていくかがずいぶん直截的なものになっていましたよね。でも、そんな状況から視点をずらして、もっと広い視野で見てみると、領域を越えたところにいろんな人がいるとわかる。そういう、自分の仲間ではない人たちと会話をしながら、また対立もしながら、どうやって次のステップへ上がっていくかを考えてみましょう、という新しい姿勢、新しい生き残り方を僕らは「倫理(エシックス)」と呼んでみたんです。
それから、これはジョークなんですけども、「Trouble in Paradise」っていうのは、1930年代後半から40年代前半の、アメリカのラブコメディのタイトルなんです。とんでもない宝石泥棒と女性スリ師が主人公の、三角関係の話なんですけど、タイトルの背景にユーモアを隠しておくとおもしろいかなと思って。
——三角関係っていうのは、何かのメタファーなんでしょうか?(笑) ま、そういう深読みもできるかな、っていうのが、おもしろいでしょう。
——各プロジェクトについてもお聞きしていきたいんですが、まず、高橋さん自身のプロジェクトは、どんなものなのでしょうか? 今日もこの部屋で実験されていましたね。 僕がアーティストの松井紫朗さんと一緒に進めているのは、直径8メートルの円形ステージが二重軸で回転する装置(*2)です。単に回転する実験装置という位置づけではなく、例えば自閉症や感覚統合などの人間の知覚問題に関する分析装置です。京都大学人間健康科学科の十一元三先生と、脳検査科学の精山明敏先生にかなり積極的にサポートしていただいています。なおかつ、精山先生のご尽力で、日立が開発した最新型の「赤外線光トポグラフィー」という脳血流を測る装置を、頭部に取り付けて実験することができるようになりました。今までの光トポグラフィーは有線だったので座った状態でしか計測できなかったのですが、最新型は無線でデータを飛ばすことができるので、装置盤上で、活動している被験者の脳の働きをライブで解析することが可能になりました。
でも、脳の解析という話になってくると、よくメディアで取り上げられているような脳ブーム、例えば脳を解析して「この分野が活動しているから君はリラックスしているね」というようなものを想像しがちかと思いますが、僕らはそういうことをやっているつもりはまったくないんです。
むしろ、僕たちが調べたいのは、自分自身の脳は他者であるとかカオスであるとか、自分の思考と情動とが違う反応をしているとか、ということです。例えば、いつも頭の中で葛藤が起きているとして、その葛藤は自分自身のシステムや回路を立て直そうと努力している状態だとすると、葛藤そのものは別にネガティブなものじゃない。むしろ、芸術経験や創造的経験も、葛藤と同じじゃないかという風に考えることができます。そうすると、自閉症や認知症といわれている人たちが経験してきたことと、アーティストがクリエイティブな発想で既成のシステムを変えようとしていること、そして鑑賞者が打ちのめされたように感じながらもこれが好きだなと思う揺れた感情、という3つがリンクする、共通の何かが見つかるのではないか、と考えています。
だから、僕らのプロジェクトは、脳ブームに乗ったと見られると残念なのですが、あえて戦略的にブームに乗りつつ、批判的でもありたいと思っています。そこで、アーティストと科学者の間に哲学者にも入ってもらって、批判的な意見をいってほしいと思いました。京都国立近代美術館の館長をされていた、哲学者の岩城見一さんにお願いして、哲学の視点からプロジェクトに関わってもらったり、被験者になってもらうことにしたのです。
(*2)高橋 悟・松井紫朗「Trans-Acting:二重軸回転ステージ/浮遊散策—宇宙滞在・認知症・庭園・発達障害の研究に基づくトポロジカルな時空と記憶形成の研究」
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2010/381projects.html#TakahashiMatsui
——なるほど。1つ1つの項目がとても興味深いですね。脳の解明に特化するというより、芸術をどうとらえるか、というポイントに収れんしていくのかな、と感じました。 計測を通して芸術を数値化するのは、やってみてもいいかなと思っていたんです。最近は、批評がだんだん成り立たなくなってきていますよね。測る、ということは客観的な視点で物事を語ることの根本にありますから、そういった文脈で計測を使ってみてもいいかもしれませんが、そこには危険性も伴ってきますから、ダブルスタンダード、二重規範が必要になってくると思います。
そういえば、この展覧会を成り立たせるときに、まず、対になったキーワードを3つ思いついたんです。1つ目は、エビデンス・ベース(Evidence Base)とエクスペアリエンス・ベース(Experience Base)。2つ目は、メディテーション(Meditation)とメディエーション(Mediation)。3つ目はコンフリクト(Conflict)とコモンズ(Commons)。この3ペアです。まず初めに思いついたのが、エビデンス・ベースとエクスペアリエンス・ベース、これは証拠と経験という意味です。科学と芸術でいうと、科学者はエビデンス・ベース、つまり証拠を重視しないといけない。なぜこうなのかという証明が要るので、輪郭がものすごくはっきりしている。一方、芸術ではそういう証明は必要ではなくて、エクスペアリエンス・ベース、経験が重要だとされています。固有の、一生忘れることのできないような強烈な経験を生み出すことが大事だ、と。ただ、サイエンスもアートも、その大もとは、ギリシャから考えると同じテクネ、術だったわけです。だからこの展覧会では、近代以降、分裂してしまった科学とアートの関係を再構築してみたいと思っています。誰にも譲ることのできない個人の芸術経験と、普遍的な科学証明とが出合う可能性と、その2つがどういう場所で出合って新しい提案になっていくかを、展覧会を通して考えたかったので、まず最初に、エビデンス・ベースとエクスペアリエンス・ベースというキーワードがあった。それを僕の場合は、医療と芸術という切り口でアプローチしていますので、脳計測もその出合いの1つとして位置づけています。
——展覧会の場では、脳計測の結果はどういう形で提示されるんですか? ワークショップかセミナーか、まだ言葉は決めていないんですが、展覧会場で鑑賞方法の実験をしてみたいと思っています。健常者と呼ばれる方、障害をもっているといわれる方、そして専門家に会場へ来ていただいて、そこに脳計測の機器を持ち込んで行う、美術館を使った実験です。被験者になっていただいた方のコメントを集めて、計測もして、専門家の意見も聞いて、その実験の場を使って次のステップへ行けたらと考えています。もしかしたら現場では「僕らは何をしたらいいですか?」と悩むようなことがあるかもしれませんが、事前にしっかり準備して当日はデモンストレーション、というのではつまらないですからね。現場で実験して、みんなの前で頭を抱えるほうがいいと思っています。
——そういう状況に慣れていくのは非常に大事ですよね。鑑賞する側が「芸術のうさんくささ」を語るとき、だいたいが体験せずに言うでしょう?体験を自身に引きつけることが大事なのに。体験するかどうかを踏み切れずに迷っている人はよく、数値的な証明や効能を求めるんですが、それははっきりしていないものなので、「じゃ、体験するのもやめておこう」となってしまう。それが、芸術の入り口まで来ているのに引き返してしまう人の反応ですよね。それで、高橋さんのお話を伺っていて思ったのは、もしかしたら今回の展覧会では、知らず知らずのうちに体験して、芸術の門をくぐれてしまうんじゃないか、と。もしそうなれば、とてもおもしろいんじゃないかという期待をもちました。 そうですね。それで、先ほどお話した3つのキーワードの2つ目に、メディテーションとメディエーションという言葉を入れたのです。この2つはかなり対立的なものです。メディテーションは瞑想的、自分自身の内側に深く深く入っていって、精神的なところにたどりつくということですが、芸術体験は社会的には瞑想的なものだととらえられていると思います。メディエーションは媒介、例えば、あるプロジェクトや経験を通して、思ってもみなかったような組織と組織、人と人が結びつく可能性がありますよね。そういう外との関係は、中に閉じこもっていくより外に出ることでつながるものだと思うんです。それで今回の展覧会では、瞑想的な経験もできるし、一方で新しい人と出会って新しい考え方をして、その場でディスカッションもできるような、そういう場をつくりたいと考えています。
さっきの芸術の話に戻ると、鑑賞者は芸術を一方的に享受するだけではなくて、自身が媒介者になって、なにか新しい生産をする生産者にもなれるんだ、ということです。美術館という場も、静かで瞑想的な、お寺のような空間にするのもいいのですが、それだけではなくて、人と人を結びつける、アクティブでポリティカルな場にもなってほしいと思っています。



——私は学生によく「芸術は社会活動だ」と言うのですが、その活動を作り出すには、「作り手」「送り手」「受け手」の3要素が循環して機能しないといけない。また、それぞれが分断した3つの立場としてあるのではなくて、1つが3つを兼ねていることが大事だと考えています。高橋さんのおっしゃることも、それに近いでしょうか? そう思います。ただそれは、芸術の問題だけじゃなくて、僕は「制度的な関係の再構築」だと思います。以前、アメリカのミシガン大学で教えていたときに、医療関係の人と共同でプロジェクトを組むことがあったんです。そのとき興味深かったのは、病院で、患者と僕と学生という関係で話しているときと、患者さんの家に僕と学生が行って、患者さんのリクエストで僕らがつくった特別なオムレツを食べさせているときとでは、患者さんから出てくる話がまったく違うんです。どうしてかというと、オムレツを食べているときは、患者さんの家にヘルプに来ている学生、それを見ている先生、という関係ではなくなってて、それぞれの垣根がとれた新しい関係でしゃべっているからなんです。その新しい関係になったときに僕らが患者さんから聞いた話を、お医者さんや看護の人にすると、彼らは「そんな話は聞いたことがない」といいます。そういう関係が生まれるんですよね。
ですから、どの場所でも、どんな共同体においても、ある種のヒエラルキーと制度的な関係があって、医療の現場でいうと、患者がいて、医師がいて、看護や介護をする人がいる、という関係がフィックスされている。そういった制度的な関係を、違う角度から引いてみてみると、制度そのもののあり方を問うことができるし、さらに、患者さんと呼ばれている、自分の身体でありながら他者に預けているような人の、ポジティブなあり方を考えていけるんじゃないかと思います。いまお話ししたのは病院の場合ですが、マーケットに置き換えて考えると、モノを買う人、売る人、工場で作る人、となりますよね。そういう制度的な関係を引いてみて、関係を成り立たせているシステムや装置とは何か?と考えていくこともできる。同じような関連性の中で、美術館やアートのシステムを考えて、再構築してみる可能性はあると思います。
——それが先ほどおっしゃっていた「宇宙的なところまで引いてみてみる」という視点につながるのかもしれませんね。 3つ目のキーワードで、コンフリクト(対立)とコモンズ(共有)を挙げていました。コモンズは、共同支援をみんなで大事にシェアしていこうという意見です。ただ一方で、「Trouble in Paradise」というタイトルにもつながるんですが、三角関係というのは結構重要なんですよね。夏目漱石の小説で、二者択一を迫られる状況があると、強いものが勝つ状況が必ず起こってしまう話がありました。土壇場になって、そういう状況に陥ったとき、コモンズの問題は大事だし、そこには三角関係も絡んでくるのかなと思います。
それに対して、コンフリクトということがある。例えば、車いすが移動しやすいようにどこでもバリアフリーを進めて、世の中のバリアを減らしていくとか、ゲイやレズビアンのことをポジティブに考えて政治的に保障していくとか、ガードを下げて差違を平準化していく言説が広がってきていますが、お互いのガードを下げる前にまず、固有の差違を際立たせて、徹底的に論争する場所が必要なんじゃないかと思うんです。その論争はお互いがわかり合うためにするのではなくて、お互いがわからないこと、話が通じないことを確認するためにするのです。まずそれが第一段階だと思うわけです。極端に言えば、国家同士の関係になるのかもしれないし、家族や職場、個人の中にあるかもしれない。それぞれの関係をじっくり見ていくことから始めるのが大事だと思います。そして、いろいろなアプローチでコンフリクトの線を結んで、対立的な状況を見てみるのがおもしろいと思って、3つ目のキーワードにコモンズとコンフリクトをもってきたんです。
——今のお話を伺っていると、現在の芸術大学の教育についてもいろいろと考えさせられることがあります。私もいくつかの芸術系の学生さんとおつきあいしていますから。芸術系大学では脈々と、自己表現が大事です、自己というオリジンを表現しなさい、と言われてきました。でも、自己というものは他者があって初めて成り立つものだし、どういう他者と結びつきたいかを選ぶことで形成されていくものだと思うのです。実際には、自己表現とは何かが取りざたされないまま、「自己表現」という言葉だけに頼っている気がします。そういう状況なので、大学には、コモンズ、共有財産にできるかどうかわからない、むきだしの自己みたいなものがごろごろ転がっている。このままだと、芸術にはこれ以上何も期待されないんじゃないかと強く思うんですよ。 最近の傾向で、いわゆる「自分探し」的なお話が世の中で流通していますが、アートもそっち方向に傾いているなと危機を感じています。個人的なストーリーや、自分の過去のトラウマとかそういう線で、どんどん自分の中を掘り下げていっている。ある哲学者が言うには「個人の中にあるセルフは、ブラックホールみたいな黒い穴でしかなくて、実際はそこに何もない」と。セルフは、自分の外側にある社会的な関係で成り立っているのに、その関係にあえて個人の小さなストーリーを突っ込むことで自己や表現が成り立つと思ってしまうのは、疑問視するべきだと思います。
芸術大学の教育の話に戻すと、学生が表現のためにいきなり自分探しをするのは非常に危険で、そこに行く前にまず、表現やセルフはどういうものかを理解しておくべきだと思います。極端なことを言うと、絵を描いたり、技術を習得するのと同時に、「人間とはどういうものか」「個人とはどういうものか」「表現というものはいつ芸術と結びついたのか」ということを一度押さえておいたほうがいいかもしれない。というのは、それぞれがやろうとしていることを、いきなり「表現」と言ってしまうと、作品と、それを提示する人、鑑賞する人という三つ巴の関係が明らかになってしまうじゃないですか。だけど、やろうとしていることを表現と言わない、というやり方もありえると思うんです。表現という言葉を使うと、どうしても個人の内面に対応していってしまうので、危険ですよね。
——おそらく日本語の不自由さも関係しているのでしょうね。美術教育についてはどのようにお考えですか? 教育における美術の位置づけは、2つあると思います。1つは、「入口にある美術」。人は、おぎゃーと生まれてからいろんな経験を積んでいくにあたって、さまざまなクリエイティブなことを無意識にやっています。それを広い意味で美術と呼んでみて、文学や数学など、なにごとをも学ぶ前の、根源的な経験としてあるべきだという位置づけです。もう1つが、「出口にある美術」。美術や哲学などいろいろなことを学んだ後、ちょっと高いステージに上がって、分野を超えた新しい場所から、世の中の関係性やものの考え方を見る。そして、そこから新しい関係性をつないでいく、いわば回路制作の装置として美術を位置づける。入口と出口、そのどちらもが可能な機関として芸術大学は存在することができるのではないかと思っています。入学した全員が履修するような学部としての美術と、博士課程のような、横断的かつ脱領域的な研究と制作ができるような美術。そういうあり方は実際にはまだまだ進んでいませんが、日本だけが進んでいないんじゃなくて、どうしても専門領域の壁があるので難しいのです。でも、領域の壁は存在させつつも、どうやって他領域と出合わせるかということは、教育現場に関わっておられる方々がリアルに感じていることじゃないでしょうか。
——美術や技術は固有のテクニックによるところが多いので、難しい部分があるのかなとは思いますけれど…。 ただ、美術はほかの分野と比べると、すごく脱領域的なんですよ。というのも、1960年代後半から70年代にかけて、美術の基礎は、現代美術の領域で徹底的に解体してしまったんです。ここまで自分たちの土台をなしくずしにしてしまった分野は、ほかにないですね。例えば建築でいうと、地震で壊れていいような高層ビルのデザインをして一級免許をもらえるかというと、絶対にないでしょう。だけど美術の場合は、表現者が表現しなくていいという極北まで行って、すべてを解体してしまった経験があるから、ほかの分野よりもポテンシャルなことをやっている。一方では、基礎とはどういうものかを非常に言いにくい状況ができてしまっている。基礎に見えるような技術を「1つずつ習得していきましょう」とは言いやすいけれども、そういう技術は、本当は根源的ではなく、付随的なことなのかもしれないとも感じています。難しいですよね。でも、基礎を疑うことは今や美術の問題だけではないんです。一般教養的な、大学の初年度教育の基礎としての内容は、何が正解なのかは、50年前の教育者ならみんなが共有していたものですけれど、今となってはもう、正解は誰ももっていない。何を基礎にしていいか、教育者は本当に悩んでいると思う。



——今回伺ったような興味深いお話は、展覧会関連のワークショップやシンポジウムに参加すると聞くことができると思うんですが、展覧会自体はどういう構成になっているんでしょうか? 体験ができたり、実験ができたりして、美術館という構造と制度と環境を使って現代的なテーマにアプローチしていかれるんですよね。 ものの見方には、さまざまなレイヤーがあっていいと思っています。何も知らずに京都へ観光に来て、たまたま美術館に入った人が、僕らの展示をみてイライラしたり、逆に惹かれたり、「これっていったい何だろう?」と不思議に思ったりする、その感じ方にいろんな層があっていいと思います。見え方、見られ方をこちら側がバシッと決めてしまって、「これは芸術表現ではありません」と注意書きをつけてしまうと、つまらないと思いますね。窓がいっぱい開いていて多層的な見方ができて、なおかつ、展覧会全体を1つの回路と見てもらえるのが理想ですね。個々のプロジェクトがそれぞれで完結してしまっているのではなく、1つずつを見た後でよく考えてみると、全体に関連性があったんだと感じてもらえるような展覧会を目指したいと思います。なおかつ、その結びつけ方が、点と点を結んで線にするだけじゃなくて、星座のように自由に描けるようなものであってほしいと思っています。そのためには、個々のつながりは、ゆるやかなほうがいいかもしれませんね。
それから、この展覧会は構想に2年以上かけて、プロジェクトチーム内でみんなが何をやっているかを知りつつ、プロセスを共有しつつ、時にはお互いに批判的なことも言いつつ進めてきたので、一般的な展覧会とは違う見え方がすると思います。普通の展覧会のように、キュレーターが展示作品をピックアップしているわけではありませんから。
——展覧会は発案してから開催まで2年ぐらいかかりますから、学芸員が集めてきた2年前の作品ばっかりで展覧会が成り立っているということはよくあります。でも今回の展覧会はプロジェクトに関わるメンバーおのおのの興味と人間関係で、最先端の議論をしながらやってきたのが特徴なんですね。各メンバーがもっている最新の情報や興味がプロジェクトに絡んでいるのでしょうか? 展覧会に参加されている方はみなさん、かなりエスタブリッシュされた作家さんばかりですけれど、今回のプロジェクトに関してはこれまでとは立ち位置を変えて、いわゆる作家表現から外れた、まったく異なるアプローチをする場として位置づけられているのかなと思います。
——そうですね。今のところみなさん個人名を表に出していないですからね。 最先端という言い方をすると、継続性があって、作家の最新作という風に思われるかもしれませんが、ちょっと寄り道してるという位置づけでもいいのかなと思います。
——作家という職業でできることやできないこと、やる必要があるかどうかは、それぞれ違うと思いますが、参加される作家たちがどんな寄り道をするのかに興味がわきますね。 あえて寄り道して、遊んで、楽しんで参加してもらえたらうれしいです。
——展覧会は結果ではないですからね。先ほどおっしゃったように、展覧会そのものが手段であり、メディアであるから、展覧会を見て、何かを気がかりに思ったり、初めて知ることがあったらいいなと感じました。しかも、美術的な文脈や歴史も踏み外せていたらいいですね。私は今日ここまで詳しくお話を聞けたので、幸運にも、展覧会場に入る前から踏み外す気で見に行けるわけですけれど、そうでない人たちにも、この展覧会が逸脱や脱却のきっかけを与えるメディアだったと感じてもらえたらいいなと思います。 今回の展覧会は、これまで京都国立近代美術館で開催されてきた展覧会の中でもカッティングエッジな、硬派なものとして位置づけられています。そこに、夏休みですから、虫かごを持った親子が何も知らずにやってくるということもあるかもしれません。逆に挑戦されている感じがします。でもそこは僕らが考えるべきハードルなのでしょう。そのとき「なんか違うな」と感じてもらえなければ失敗だと思います。僕らの扱う内容に関する知識を積んだ人だけにわかってもらえればいいということはないですし。観客を受け入れる幅の広さはもっておきたいですね。
アイデンティファイ(同一)できない、ということも大事ですね。「これはなんですか?」と言われても言えないようなことが大事というか、かなり積極的に開き直ることも大切だと思うし、誤解を恐れずに言えば、ものすごく難しくてもいいと思っています。というのは、僕らはあくまでも新しい概念を提出しようとしているからで、その場合は、わかるはずがないだろうと思うんです。例えば、アインシュタインが相対性理論をつくったときや、マルクスが共産主義という概念を提案したときには、誰もわからなかったじゃないか、というスタンスです。もう一方で、よい意味での啓蒙でもありたい。キャンディをなめるようなおいしい経験ができるのではなくて、ある生産的な経験がしたいのであれば、押さえるべきものごとはおさえないといけない。鑑賞者として美術館を訪れて、会場で不満に思ったり、おもしろいと感じたりしたことと、その場ではわからなかったことを、全部ごっちゃになった「カオス」として持って帰ったら、そのカオス状態をどれだけキープできるか。ぱっと答えが出てしまったら「そういうことだったのか」とそれで終わってしまうんですが、いろんなものがごちゃごちゃになった訳のわからないおもちゃ箱として、どれだけ長くもっていてもらえるかが、一番のポイントだと思います。
——これまで、現代美術を紹介する側は「わからない」ということを恐れすぎて、「わかると言わせたい」ということばかりやってきました。でも、そうではなくて、経験した内容をまるごと持って帰ることがおもしろいんだと知ったり、好きになってもらうには、日常レベルでの啓蒙や教育といったことが大事ですね。
(取材:2010年5月20日 京都市立芸術大学 大学会館1Fホールにて)
| 展覧会名 | Trouble in Paradise/生存のエシックス |
|---|---|
| 開催日時 | 7月9日(金)~8月22日(日) 月曜休(ただし7月19日は開館、20日は休) 9:30~17:00、金曜は~20:00(入館は閉館の30分前まで) |
| 開催場所 | 京都国立近代美術館 |
| 入場料金 | 一般850円、大学生450円、高校生以下無料 |
| お問い合わせ | 電話075-761-4111 |
*Trouble in Paradise/生存のエシックス(京都国立近代美術館)
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2010/381projects.html


神戸生まれ。京都市立芸術大学卒。1986年、京都市上京区にヴォイスギャラリー(現MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w)開業。京都芸術センター企画委員、主催公募展審査員などを経て、現在、財団法人京都市芸術文化協会評議員、京都嵯峨芸術大学・短期大学非常勤講師、京都精華大学非常勤講師、大阪成蹊大学芸術学部非常勤講師など、多方面で活躍中。
ヴォイスギャラリーは、アーティストとして活動していた松尾が、アーティスト・ラン・スペースとして開設しました。ヴォイスとは、アーティストの<声>の意味です。アーティスト間の情報交換や実験的作品(無名で金銭的価値のつかない)を中心に紹介してきました。
貸し会場/企画展の両方を行いながら画廊を維持運営する一方、京都市の芸術環境整備への協力として、松尾個人が京都市や企業との共同プロジェクトなどに参加してきました。
2005年に画廊を拡張。2室になった展示室で多彩な企画展示を開催してきましたが、さらに大きな空間をめざして、2009年2月に元染織工場に移転しました。その際、これからの海外との交易や情報交換をめざし、名称にギャラリスト名を明確にするために松尾の名を付け足しました。
Trouble in Paradise/生存のエシックス
高橋悟氏に聞く
Category: Feature